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チェリビダッケ ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 若き日の名演

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こんにちは。
ともやんです。

ドミトリー・ショスタコービッチ(1906-1975)
交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」
セルジュ・チェリビダッケ指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1946年12月22日

『ベルリン・フィル~名演奏集[10CD]』

この録音の前日、ベルリンフィルの演奏会で、この曲のドイツ初演が行われました。

コンサート会場には、非ナチ化審理によりようやく無罪となったフルトヴェングラーもいました。

指揮は、当時33才の若さにしてベルリン市民の心をつかみ、
フルトヴェングラーが復帰するまでという条件付きで、常任指揮者に就任していたチェリビダッケ。

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ショスタコーヴィチ 交響曲第7番について

ショスタコービッチの交響曲中最大の規模を持つ第7番は、レニングラードが、ナチス・ドイツの包囲を受けた1941年7月に着手され12月に完成し、レニングラード市に捧げられました。

初演は、作曲の翌1942年3月5日。

ショスタコービッチが疎開していた西シベリアのノヴォシビルスク州クイヴィシェフで、同じく当地に疎開していたボリショイ劇場のオーケストラでサムイル・サモスード(1884-1964)の指揮で行われました。

初演は、ラジオ放送で、ソビエト連邦全土に放送され、大評判になりました。

ソ連共産党機関紙「プラウダ」には、ショスタコービッチの

「この交響曲をファシズムに対する我々の闘争、来るべき勝利、そして故郷レニングラードに捧げます。」

という談話に載りました。

そしてこの交響曲に「レニングラード」という題名が付けられました。

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ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 レニングラード初演までの苦難

ソ連の首都モスクワでの初演は、1942年3月29日。

この曲はソ連国内はもとより、アメリカを始めに西側でも「ファシズムとの闘い」を描いた曲として評判になり、

名指揮者、名門オーケストラが競って演奏して行きます。

しかし、皮肉にもこの交響曲を捧げられたレニングラード市は、まだナチス・ドイツの包囲戦の真っ只中で、ラジオも聴けない状況でした。

レニングラードで演奏されてこそ意味のある曲です。

果たして可能なのか?

一方アメリカでは、セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)が、この曲のコンサート・ホールの初演の権利を獲得していました。

しかし、NBCが放送の初演の権利を得ていたのです。

NBCとしてはトスカニーニに初演をしてもらいたい。

トスカニーニもそれに依存はありませんでした。

しかし、ストコフスキーも初演を希望していました。

当時、ストコフスキーは、トスカニーニとNBC交響楽団の演奏を分け合ていました。

一方トスカニーニは、反ファシズム、反ナチスの旗印としてどうしてもこの曲をアメリカで最初に振りたいという強い希望を持っていました。

そこでトスカニーニは、ストコフスキーに手紙を書き、自分に初演を譲ってほしいと説得を試みました。

結局ストコフスキーは、自分より10才年上のイタリアの反ファシズムの説得に折れ、初演を譲るしかありませんでした。

そのようか経緯の下、イタリアの反ファシズムの老大家トスカニーニは、2週間かけて、演奏時間1時間以上のこの大曲を暗譜して、

1942年7月19日、スタジオからの放送演奏会で、アメリカ初演をし、全米に放送されたのでした。

この放送で、ドイツ軍に苦しめられているレニングラード市民の闘いの惨状が、アメリカ国民の心にも響いたのでした。

参戦したばかりのアメリカが、ヨーロッパ戦線で戦う連合国と一体となったのはこの時からと言われています。

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ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 レニングラード初演

肝心のレニングラード初演はどうなったか?

1942年8月9日にようやく封鎖が続き飢餓に苦しむレニングラードで初演されたのです。

レニングラードに楽譜が届いたのは、7月上旬でした。

ドイツ軍の包囲網をくぐり抜けて極秘の搬入だったのでした。

楽譜は、「国家機密」扱いとなり、初演地のクイヴィシェフでマイクロフィルムに収められた後、陸路でテヘランへ運ばれ、カイロ経由で連合国にもたらされました。

6月22日にロンドンでヘンリー・ウッド(1869-1944)指揮

のロンドン交響楽団でのラジオ放送の演奏が西側初演となりました。

1週間後の6月29日、ロイヤル・アルバート・ホールでのプロムナード・コンサートでの演奏が西側の公開初演となりました。

そしてレニングラード。

7月上旬に楽譜が届きましたがレニングラードでは、食料も不足していましたが、紙や鉛筆、ペンも不足していました。

楽譜が届いてからそれらも必死に集められ、模写係の一団が昼夜を徹してパート譜を用意しました。

リハーサルが始まったのが7月下旬。

レニングラード市内に残っていた演奏家だけでは、足りないので戦場にいた演奏家たちも呼び戻されました。

食糧難でしたが、市民は演奏家への特別な配給を認めました。

こんな非常時に音楽を演奏している場合か、という声もありましたが、非常時だから音楽が必要なんだという声が圧倒しました。

人々は、食料に飢えていましたが、音楽にも飢えていたのです。

8月9日、ホールは超満員になりました。

入れなかった人のために拡声器を使いレニングラード全市に流されました。

その音楽は、レニングラードを包囲しているドイツ兵にも届きました。

ドイツ軍のレニングラード戦線司令官は、演奏中は戦闘の中止を命じ、かれらドイツ兵士もこの演奏を聴きました。

もしかしたら、いやきっと包囲するドイツ兵の中にこの曲を聴きながら、ナチス・ドイツの愚かしさを呪っっていた兵士もいたことでしょう。

演奏が終わったら、また戦闘が始まりました。

そしてこのレニングラード初演から約1年半後の1944年1月18日に、レニングラード包囲戦は、ドイツ軍の敗退によって終わるのでした。

ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 ナチスの崩壊とドイツ初演まで

1944年1月18日、ついにレニングラードは解放されました。

ドイツ軍による包囲戦は、2年4ヶ月約900日も続いたのです。

ソ連政府のよると約67万人の市民が、飢餓や砲撃に死亡したと発表しています。

しかし、100万人を超えているのと言う説もあります。

6月5日に、ローマが連合国により解放。

6月6日、史上最大の作戦ことノルマンディー上陸作戦が成功し、戦況はドイツにとって一気に不利になって行きました。

6月22日、ソ連はベラルーシで大攻撃を仕掛け、ドイツ中央軍集団を撃退。

そのまま西方に進撃し、8月1日には、ポーランド中部、ワルシャワの向かい側にあるヴィスワ側まで達しました。

7月20日には、ドイツの総統大本営でヒトラー暗殺未遂事件が勃発。
この暗殺計画には、上層部のかなりの人材が関与していたらしい。

8月25日、連合国軍は、ついにパリを解放。

その後ドイツ軍は撤退を続け、10月にはソ連軍はドナウ川を渡ったてきました。

11月にはドイツ軍はギリシアから撤退。

12月16日には、ドイツ軍は、国境に迫る連合国軍を分割するためバルジ大作戦と呼ばれる最後の総攻撃を仕掛けました。

これがドイツ軍の最後の総攻撃となりました。

1945年1月12日、ソ連軍は100万人の兵力で、ドイツに向けて大攻勢を仕掛ける。

1月17日、ソ連軍が、ポーランドのワルシャワを解放。

5月9日についにドイツは降伏。

戦後は、ナチス体制下のドイツとその占領国で働いていた音楽家たちに厳しい批判が待っていました。

フルトヴェングラーにもその批判の対象となり、ドイツ国内での演奏禁止と非ナチ化審理を受けなければなりませんでした。

一方、ベルリンフィルは、ドイツ降伏の4日後の5月13日には、戦後最初の演奏会を開いています。

指揮は、レジスタンスとして活躍していたレオ・ボルヒャルト(1899-1945)。

一時ボルヒャルトが、フルトヴェングラー不在時のベルリンフィルの暫定的常任指揮者となりましたが、8月に不慮の事故で亡くなってしまいました。

そこに現れたのが、ルーマニア出身の若き指揮者セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)でした。

彼はベルリンフィルを振る指揮者を決めるオーディションに自転車で駆けつけたのでした。

1945年8月29日、

オーディションから数日しか経っていないベルリンフィルの演奏会の指揮台には、チェリビダッケがいました。

新聞での批評は賛否両論がありましたが、一部の聴衆の中に熱狂的に支持する人も現れ、
フルトヴェングラーが戻るまでという条件付きでベルリンフィルの音楽監督に就任しました。

フルトヴェングラーは、1946年3月にオーストリアから無罪宣言を受けましたが、それが連合国の審判ではありませんでした。

この時点で、フルトヴェングラーの復帰に反対していたのはアメリカ軍だけでした。

そして数ヶ月の時が流れ、フルトヴェングラーが連合国の非ナチ化審理を受け、
ようやく無罪となったのが、1946年12月のことでした。

そして、反ファシスト、反ナチズムの象徴となったショスタコービッチの交響曲第7番のドイツ初演は、1946年12月21日に、チェリビダッケ指揮ベルリンフィルによって行われました。

演奏後、フルトヴェングラーは舞台まで行き、チェリビダッケに「いい演奏だった」を声を掛け握手しました。

フルトヴェングラーの復帰は、それから約半年後の1947年5月25日のことでした。




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