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カラヤン 第二次大戦下のシュターツカペレベルリンとの凄演 

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1944年、第二次世界大戦下、ドイツの戦況は一段と厳しいものになっていました。

しかし、だからかカラヤンが凄い演奏を残しています。

当時、まだ30歳代、半ば、戦況がどうあれ、

これが俺のベートーヴェンだとばかり、
後年では信じられないような迫力ある演奏を残しています。

 

そしてカラヤンにとって、州立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレベルリン)を

指揮した生涯最後のシーズンになりました。

 

敗戦の様相は色濃くなっていましたが、戦後のドイツが、

そしてベルリン市が東西に分割され、しかも歌劇場が東側に属するようになるとは、

この時誰も予想していませんでした。

 

ただ、カラヤンはこの時期4月にパリに客演しています。

パリ放送管弦楽団を指揮したわけですが、これは戦後、

カラヤンにとっては負の経歴になったのです。

 

当時、パリはドイツの占領下にあり、

ドイツのプロパガンダに協力した証拠だとされたのでした。

 

また、カラヤンは1941年にもシュターツカペレベルリンのパリ公演を指揮していて、
ドイツ占領下での演奏を巧みに逃れていたフルトヴェングラーの方が、

状況判断としては正しかったようです。

 

処世術に長けてカラヤンにしては、甘かった印象がありますが、

まだ30歳代、野心の方が勝っていたのでしょうか?

 




カラヤン 第二次大戦下のベートーヴェンの英雄

 

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven (1770-1827)

 

交響曲第3番 変ホ長調 「英雄」 Op. 55
Symphony No. 3 in E-Flat Major, Op. 55, “Eroica”

 

Ⅰ(15:55)Allegro con brio
Ⅱ(15:58)Marcia funebre: Adagio assai
Ⅲ(06:02)Scherzo: Allegro vivace
Ⅳ(11:03)Finale: Allegro molto

 

シュターツカペレ・ベルリン – Staatskapelle Berlin
ヘルベルト・フォン・カラヤン – Herbert von Karajan (指揮)
録音: May.1944, Berlin

 

演奏団体 : シュターツカペレ・ベルリン 指揮 : ヘルベルト・フォン・カラヤン

※CDは2枚組で、2枚目にブルックナー交響曲第8番を収録。これも歴史的名盤。

 

カラヤンのベートーヴェンの英雄は、全部で14種類も残っているそうです。
残念ながら僕はそれらすべては聴いていません。

 

多分、この44年の英雄が、残されている録音で一番古いものだと思われます。
まず、驚かされるのが、音質の良さ。

 

上記のCDでは、同年ブルックナーの8番も収録されていますが、

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こちらは実験的に一部ステレオで録音されています。

 

後年、録音に命を賭けるカラヤンの姿勢が、この時点でも伺えます。

 

演奏は、第1楽章では、後年の演奏より、ややテンポを遅めにとり、

綺麗ごとではない演奏を展開しています。

 

後年、特に70年以降のカラヤンは、秀麗でより洗練された演奏をして行きますが、

そこのが僕自身も違うだろ!と思わず言いたくなるほどベートーヴェンと

かけ離れていくように感じます。

 

でもこの時、そして少なとも60年代までは、

品格の中にも粗野で野性的な部分があり、

そこがベートーヴェン的と思える部分を残していました。

 

特にこの44年の録音ではそれが顕著で、

僕がこの時期から60年代までのカラヤンが好きな理由です。

 



カラヤン 第二次大戦下のコンサート活動

 

このシュターツカペレベルリンとの録音が行われた翌月、

1944年6月6日、連合軍はフランスのノルマンディーに上陸しました。

 

ドイツ敗戦へ向けての決定的な一撃になったのです。

 

その直後、ヒットラー暗殺未遂事件が勃発。
ヒットラーは奇蹟的に助かりますが、どんどん内に籠るようになり、

多くの娯楽施設が閉鎖に追い込まれました。

 

こんな時期でも、いやこんな時期だからこそ、

人々は音楽を必要とし、フルトヴェングラーもカラヤンも演奏を続けたです。

 

しかし、ベルリンの空襲は激しさを増して行き、ベルリンでも毎日犠牲者が出ていました。

 

カラヤンも11月にはベルリン脱出を考えていたようで、

伝手を頼って飛行機の座席が合い空いたら知らせるように伝えていました。

 

しかし、飛行機の席は、全て軍部が押さえていて空席は出てこない。

 

年が明けて45年2月、カラヤンはまだ義理堅くシュターツカペレベルリンとの

コンサートを指揮しています。

 

その後、どうにしかしてミラノ行きの飛行機に空席が空いたと知らせを受けて、

取るものも取らず、妻にアニータと乗り込み、ドイツ脱出に成功しました。

 

といってもミラノも敗戦後の混乱の中にあって、

相当苦難を舐めたようで、カラヤンは終生この時期のことを話したがらなかったようです。

 

 

まとめ

 

20世紀前半から活躍していた音楽家にとって、

第二次世界大戦の影響を受けなかった人はいないでしょう。

 

日本でも、朝比奈隆は、満州から命からがら引き上げています。
まだ幼少だった岩城宏之も田舎に疎開していました。

 

ドイツでは、多くのユダヤ系の音楽は迫害され、亡命が出来た音楽家は良いですが、

収容所に入れられ、命を失った人々も多くいました。

 

この時期の演奏の記録を紹介することは、

この時期の世界情勢を伝えることにもなります。
もうこんなことはご免だと伝えていきたいです。

 



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