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カラヤンの名盤 帝王になる以前の若き日の不遇時代こその名演

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こんにちは、
ともやんです。

ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)は、僕に音楽の楽しさを教えてくれた一人です。
中学生の時、初めて買ったLPが、カラヤン指揮フィルハーモニア管によるベートーヴェンの「運命」とチャイコフスキーの「悲愴」がカップリングされたもの。

そして、今では大好きな作曲家となったブルックナーの最初のLPもカラヤン指揮ベルリンフィルのものでした。

しかし、何度も来日していながら実演は聴くことがありませんでした。
そしていまでもカラヤンの録音がよく聴きます。

でも、60年代までと偏った聴き方になっていますね。

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ヘルベルト・フォン・カラヤン 30代の名演

指揮ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)

ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)
「運命に力」序曲
ベルリン国立歌劇場管弦楽団 1939年2月ベルリンにて

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ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
交響曲第35番ニ長調K.385“ハフナー”
トリノ放送交響楽団 1942年トリノにて

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リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)
交響詩「ドン・ファン」
アムステルダム・コンセウトヘボウ管弦楽団
1943年9月アムステルダムにて

カラヤン30才前半の颯爽として演奏。70年以上前の演奏にも関わらず、古臭くなく現代的な演奏で、時代を超えています。

モーツァルトは、厳しく低音のザワザワ感が堪らない男性的な演奏。

リヒャルト・シュトラウスは、コンセウトヘボウの良さを十分に引き出し、官能的で色気のある演奏です。

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クラシック音楽との出会いはカラヤンだった

僕がクラシック音楽に興味を持って初めて購入したLPと次に購入したLPで、僕の人生は決まったようなものです。

最初に購入したLPは、カラヤン&フィルハーモニア管の「ベートーヴェンの運命とチャイコフスキーの悲愴」

次に購入したLPが、フルトヴェングラー&ウィーンフィルのベートーヴェンの英雄。しかも1944年録音のもの。

クラシック音楽を聴きだしたばかりの中学の僕が、二人の関係性など知る由もなく、またフルトヴェングラーは、僕の生まれる前には亡くなっていた人でした。

でもその頃から演奏者の違いを楽しむ聴き方をしていたようで、同じ指揮者やオーケストラのLPを続けて購入することはなく、しかも中学生が当時高額だったLPをポンポン買えるわけでもなく、それとなく研究しながら慎重に購入していたように思います。

カラヤン、フルトヴェングラーに次いでは、ベーム、ワルター、バーンスタイン、クレンペラー、コンビチュニーというように出来るだけたくさんの指揮者の演奏を聴くようにしていました。

そして高校生になり、最初に買ったのが当時最高のブランドだった、カラヤン&ベルリンフィルによるブルックナーの交響曲第4番“ロマンティック”。
これはいまでも愛聴盤です。

その後、CDも買いましたが、LPに比べいまいちベルリンフィルの凄さが伝わってこないけど。

ただ、どうも好きになれず、CDも特に集めるでもなく、僕の中では、カラヤンは忘れられた指揮者となっていました。

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僕の眠れる魂を呼び起こしてくれたアリアCD

僕は、現在CDは、通販ショップのアリアCDかHMV、そしてディスクユニオン新宿のクラシック館で購入しています。

特に意識していませんが、なんか均等に購入しているようです。

アリアCDのオーナー松本大輔氏は、著書も多く、僕は勝手に敬愛している方ですが、そのクラシック音楽に掛ける情熱には、熱くなるものがります。

そして僕にカラヤンって凄いんだよって教えてくれたのが、松本氏でした。もちろんお会いしたことがないので著書でですが。

その著書の中で、失業者としてベルリンに来て、一旦栄光への切符を掴んだかに見えたが、また干されて、失意の中でもがき苦しんでいたカラヤンのことが書かれていて、

これはその時期のカラヤンを聴かねばならないと、アリアCDのオリジナル・レーベルから購入したのが、本日紹介する演奏です。

帝王になる前のカラヤンを聴け!

カラヤン30才。才能あふれる将来有望な指揮者が、ベルリンフィルを振って華々しくデビューしたのが、1938年のことでした。

しかし、カラヤンには才能もありますが、いや才能があるがゆえに、時のナチ政権内部の抗争に利用されたのでした。

ここでは詳しく触れませんが、ナチ政権内部の抗争に利用され、フルトヴェングラーからは嫉妬の感情を持って、敵対視され、このまま一気にドイツ国内での実力者としてのし上がっていったわけではなかったのです。

この数年後42年から45年までドイツ国内では、カラヤンはほとんど活動できず辛酸をなめた時代でした。

しかもベルリンフィルに至っては、42年以降、54年にフルトヴェングラーが亡くなるまで、わずか指揮したのが10回ということです。

一方、セルジュ・チェリビダッケは、400回以上指揮したのです。

干され、失意の中にいたカラヤンですが、虎視眈々と次の機会を狙っていました。

また、この時期、ナチ政権から疎まれたいたという事実は、戦後は逆に良かったようです。

まとめ

カラヤンは一時期、音楽界の権力のほとんどを手に入れ帝王と呼ばれました。

カラヤンの人気が絶頂だった70年代から80年代に掛けては、クラシック音楽に普段興味のない人でもカラヤンの名前は聴いていました。

また、カラヤンというだけで音楽ソフトが売れていました。

当時レコード屋に行くと、カラヤンのLPで溢れていたものです。

だから日本の音楽雑誌もカラヤン派とアンチカラヤン派で別れてかんかんがくがくと論争が華やかでした。

僕はどちらかというとアンチの方で、あまり聴かなくなったのですが、権力者になるには運と権謀術数だけでは無理で、ベースになる才能はやはり必要。

そういう意味では、不遇の時代から帝王に駆け上った40年代から60年代のカラヤンは凄いです。

困ったなぁ、こんなカラヤンを知ったからにはまたたくさんCD買わなくちゃ。。。


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