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フルトヴェングラー モーツァルト交響曲第39番 非常識な名演

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こんにちは、

ともやんです。

 

フルトヴェングラーというと、もっとも印象が強いのは、やはりベートーヴェンです。

 

しかもフルトヴェングラー自身、ベートーヴェンを得意としていて、何度も飽きずに演奏していますし録音も多く残されています。

 

それに比べ、モーツァルトのなんと少ないことか。

 

録音が少ないということは、つまりコンサートでも取り上げていないし、当然、本人も得意としておらず、レパートリーとしていなかったのでしょう。

 

「フルトヴェングラーの全名演名盤」宇野功芳著で調べると、交響曲では、録音で残されているのはわずかに2曲のみ。

 

残されているのは第39番と第40番で、一番フルトヴェングラーに向いているのではないかと思われる第41番“ジュピター”は残されていません。

 

その残された2曲も、まことにユニークな演奏なので、今日はフルトヴェングラーのモーツァルトの交響曲の迷盤、いや名盤をご案内します。

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フルトヴェングラーの名盤 モーツァルト交響曲第39番変ロ長調

 

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
交響曲第39番変ロ長調 K.543
Ⅰ(–:–)Adagio-Allegro
Ⅱ(–:–)Andante
Ⅲ(–:–)Menuetto:Allegro-Trio
Ⅳ(–:–)Allegro
ウィリヘルム・フルトヴェングラー指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1944.02.08

録音は、ベルリンフィルのコンサートにおけるライブ録音です。

 

 

観客の咳などがところところで聴こえます。

ちなみにヨーロッパの観客は、割と演奏中でも平気で咳などをするように思います。

出物、腫物所かまわずでしょうか?

会場で発生する音は演奏の一部とみなしているのでしょうか?

 

一方、日本では、演奏中はかなり遠慮をするようで、逆に曲と曲の合間には、海洋生物が息継ぎに海面に上がってきたように一斉にゴホゴホやります。

 

実は、2年前の大みそか、東京文化会館に、小林研一郎指揮でベートーヴェンの全曲演奏を聴きに行ったのですが、

僕は風邪気味で、咳も出ていました。

 

かなり抑えていたつもりですが、曲の合間に、係員が僕の席に来て注意されました。

 

僕は、申し訳ないと思いながらも、一方で、曲の余韻を楽しむ間もなく、ブラボーを叫ぶアホの方が問題だと思います。

 

さて、演奏ですが、出だしから度肝を抜かれます。
まるでベートーヴェンではないか!

 

何事が始まったのかと驚いて、あれ、これモーツァルトだよな、とジャケットを見直したくらいです。

 

そのベートーヴェン的な演奏は、全曲を通して感じられるものですが、フルトヴェングラーらしいと言えば、これほどフルトヴェングラーらしい演奏はないです。

 

だから、フルトヴェングラー的には自分のやりたい演奏をやり切った感は、あるのではないでしょうか?

 

また、ベルリンフィルの弦の魅力も堪能です来ます。

特に第3楽章と終楽章で時折みられるポルタメントに非常にチャーミングさを感じさせます。

 

ポルタメントは多用されると嫌味ですが、隙のないキャリア・ウーマンがふと見せる女性らしさに萌えるみたいな感じがいいです。

 

 

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フルトヴェングラーの名盤 モーツァルト交響曲第40番ト短調

 

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
交響曲第40番ト短調 K.550
Ⅰ(06:54)Molto allegro
Ⅱ(08:28)Andante
Ⅲ(04:21)Menuetto:Allegretto-Trio
Ⅳ(04:28)Allegro assai
ウィリヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
録音:1948.12.07-08 & 1949.02.17

 

40番も39番同様、出だしから驚かされます。

 

なんだ、この速さは!

 

あれ、これフルトヴェングラーだよな?とジャケットを見直すくらいです。
僕は、初めてこの演奏を聴いたとき、ぶっ飛びました。

 

フルトヴェングラーですから、ゆったり濃厚に旋律を歌わせて始まると思っていたからです。

 

全く予想を裏切られた感じです。

 

なにをそんなに焦る必要があるのか、と思うほど、切迫した演奏で、トスカニーニもここまで速くないな、

と思い聴いてみるとトスカニーニ※の方が、

 

ずっと陰影に富み、テンポの動きも大きく感情の動きがあり、この曲に関する限り、フルトヴェングラーの方がずっと即物的な演奏をしています。

 

その即物的な演奏に歯止めをかけているのは、ウィーンフィルの奏者たちです。

第2楽章で、ぐっとテンポを落とし、フルトヴェングラーらしいところを見せますが、
第3楽章、終楽章では、また速いテンポの即物的なスタイルに戻ります。

 

もし、オーケストラがウィーンフィルではなかったら、干物的な演奏になっていたかもしれません。

 

フルトヴェングラーの表現をウィーンフィルの艶やかな響きが救ったとも言える演奏です。

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フルトヴェングラーは、生涯未完の大器だった!?

 

僕は、フルトヴェングラーの魅力は、生涯未完の大器だったところだと思っています。

 

未完の大器というと20世紀最大最高の指揮者に対して、大変失礼ですが、常に新しい試みにより最高の音楽を生涯追究していった姿からそう思うのです。

 

それは、今行っている演奏が、最後になるかもしれないという緊迫感の中で常に演奏していて、それが伝わってくるからです。

 

宇野功芳氏の前橋汀子のCDのライナーノーツにありましたが、プロの演奏家には、どこかに慣れがある。

 

名曲なら、プロの指揮者、オーケストラは何十回と演奏しているでしょう。

だから指揮者なしでも、そこそこの演奏が出来るでしょう。

 

でもそれでは聴衆は感動しないのです。

 

そう聴衆、リスナーは感動したくて、嫌なこと、辛いことを忘れたくて音楽を聴くのです。

 

フルトヴェングラーの録音を聴いているとその宇野氏が指摘するプロとしての慣れを感じさせないのです。

 

だから、生涯未完だったフルトヴェングラーが亡くなって60年以上も経つのに聴かれ続ける理由だと思います。

 

 

 

まとめ

 

フルトヴェングラーは、20世紀を代表する音楽家で、最高の指揮者とも言われます。

 

フルトヴェングラーは、録音に対して懐疑的、積極的ではなかったと言われます。
一方で、録音の重要性は理解していたとも言われます。

 

ただ、カラヤンのように、録音とLP、CDを利用して自分の演奏を世界に広めるという野心はなかったようです。

 

それは時代的にも難しかったのかもしれません。

 

でも、フルトヴェングラーが望むと望まないにも関わらず、膨大は録音が残されています。

 

これは、後世のリスナーに取って、大変有難いことで、これが少なかったら、幻の指揮者として語り継がれるだけで終わったでしょう。

 

フルトヴェングラーに魅せられた人たち、少なくても僕は、フルトヴェングラーの残された録音を聴きながら、彼は音楽に何を求め続けたのか、思いを馳せ続けるだけです。

 



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