エーリッヒ・クライバーのベートーヴェン
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)
交響曲第3番 変ホ長調 作品55”英雄”
Ⅰ Allegro con brio 14:00
Ⅱ Marcia Funebre:Adagio assai 15:25
Ⅲ Scherzo & Trio:Allegro vivace 04:01
Ⅳ Finale.Allegro molto – Poco andante-Presto 11:12
交響曲第7番 イ長調 作品92
Ⅰ Poco sostenuto – Vivace 10:51
Ⅱ Allegretto 07:39
Ⅲ Presto – Assai meno presto 07:27
Ⅳ Allegro con brio 07:34
エーリッヒ・クライバー指揮
コンセルトヘボウ管弦楽団
録音 1950年5月8日(英雄)、5月9日(第7番)
ナチス政権下での毅然とした態度も戦後は悲しい
19世紀の終わり頃から20世紀に初めに掛けて生まれ、1920年代以降、現役バリバリか、若手だったヨーロッパの音楽家で第2次大戦前、ナチスの影響を受けなかった人はいないだろう。
ほとんどの著名な音楽家が、ナチス統治下で仕事を制限されたり、
追われたりして、その全盛期を台無しにされています。
ナチス政権の下で、反発しながらも仕事を続けた人もいれば、
迎合してそれなりのポストをもらった人もいれば、流されるままに日和った人もいれば、反発して毅然とヨーロッパを立ち去った人もいます。
現代の我々が、ああすれば良かった、こうすれば良かったと勝手に思ってしまいがちですが、当時の渦中にいる音楽家たちには、苦悩の連続だったのです。
中には、命を落としたり家族を失った音楽家もいました。
エーリッヒ・クライバーは、要職にありながらナチスを公然と批判し、
ドイツを去った人です。
その毅然とした態度は誠にカッコいいのですが、戦後ヨーロッパに戻ってきたクライバーには、支持するひとも少なく、「自分たちを置いて逃げた」「自分だけ英雄気取りをしている」という感情を持たれたと推測されます。
ぎりぎりまでドイツに留まり、演奏を続けたフルトヴェングラーとは対照的ですね。
フルトヴェングラーは、戦後、政治的には戦犯の嫌疑を掛けられましたが、民衆からは復帰を熱望されて、喝采をもって迎えられました。
エーリッヒ・クライバー 不完全燃焼だった全盛期
エーリッヒ・クライバーは、40代から50代の全盛期、亡命先の南米アルゼンチンのブエノスアイレスで活躍しますが、所詮、クラシック音楽の辺境の地で、戦後ヨーロッパに戻ってきます。
しかし、ウィーンの復帰コンサートも上手くいかず、数年は活躍の場がない状態でした。
54年になって漸くベルリン国立歌劇場のポストに就くことになりますが、東ドイツの社会主義政権下ということもあり、就任前に辞任してしまいました。
また55年に再建されるウィーン国立歌劇場総監督の候補にもクレメンス・クラウスと共になりましたが、結局カール・ベームにその座を奪われ、クラウスは54年5月にメキシコで客演中に急死、クライバーも56年1月17日のモーツァルト200回目の誕生日に病死しと、その末路は悲しいものでした。
クラウスは61才、クライバーは65才という働き盛りでの死で、ナチスによって寿命が縮められたと言えなくもないです。
エーリッヒ・クライバー デッカに残された貴重な録音
エーリッヒ・クライバーは、その人気と実力から、戦前からの録音もありますが、戦後の録音は少ないようで、それが録音でしか接せることが出来ない日本で人気がありまないのかもしれません。
だって、クライバーと言えば、日本ではまず息子のカルロスですからね。私も今回初めてCDでエーリッヒ・クライバーの演奏に接したくらいです。
しかし50年代にデッカに貴重な録音が残されているのはありがたいですね。
ベートーヴェンの2つの英雄と田園、それに第5番、第7番、第9番。
モーツァルトの第39番、第40番。歌劇「フィガロの結婚」
リヒャルト・シュトラウスの歌劇「薔薇の騎士」などどれも名演です。
今回ご紹介する、コンセルトヘボウとの英雄と第7番は、キリリと引き締まって颯爽とした名演です。
まるでフルトヴェングラー現役時代に対抗するような演奏で、しかも響きの端々に香るようなウィーン風の色気も感じられます。
もっと長生きして録音を残してほしかった人ですね。まあ、息子もそうですが。親子そろって気難しい性格だったのでしょうか。
最後に、第7番の第4楽章だけ、それまでの洗練された演奏からはちょっと趣が変わってなんかズンドコズンドコって感じで、どうしたの?といった迷演です。楽しめますよ。
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