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ジョージ・ガーシュイン名曲集 インマゼール古楽器演奏が新鮮

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こんにちは、
ともやんです。

ガーシュインが亡くなってもう80年以上が経ちます。
享年38歳。

過労死といってもいいほど、売れっ子のガーシュインが映画に、ショーに、ラジオに山積みの仕事を抱えていました。
そのため1937年7月11日、仕事先のハリウッドで倒れ帰らぬ人となりました。

さて、古楽器演奏の急先鋒、インマゼールによるガーシュインの名曲の演奏。
古楽器演奏もここまで来たか、という感じです。

以下、本日ご案内するCDの謳い文句です。

 

ついに出た!
「古楽器ガーシュウィン」は企画だけで終わらぬ名演だった…驚異の連続、見過せません!

中略

曇りない目で「20世紀前半のアメリカにあった金管楽器」の真相を見極め、弦楽器にもガットだけでなく慎重に金属弦を交えつつ、当時の録音物やピアノロールも徹底的に聴き極め、彼らが辿りついた音響世界たるや…「およそ学術的無味乾燥とは無縁」などと言うのも無駄、ガーシュウィン財団の史料にもあたって復元されたソロ部分含む「ラプソディ~」他、圧巻の名演の連続!

アリアCDHPからの引用

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ジョージ・ガーシュイン インマゼールの鮮烈な名演で

ガーシュインは、1898年9月26日、ニューヨークのブルックリン生まれ。
土地のハイスクールを卒業。13歳のときからピアノはハンビッツァーに、和声をケレニーに学びました。

16歳でレミック音楽商社に入社し、そこの店頭でピアノの演奏を担当。

店頭演奏をしているうちに流行歌などの作曲に興味を感じ、1919年21歳の時に「私は若かった」「おはよう裁判官」を作曲、ついで有名な「スワニー」を書きました。これはアル・ジョルスンが全米で歌ってくれたので、ガーシュインの名は、全米で知れ渡るようになりました。

やがてジャズ王とうたわれたポール・ホワイトマンに知られ、その楽団のピアノを担当しました。そして有名な「ラプソディ・イン・ブルー」を書くことになりました。

この曲が、日本の敗戦後、アメリカ軍に占領されていた頃、アメリカを象徴する意味で盛んに演奏されました。

インマゼールのガーシュイン、超おすすめです。

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インマゼール ガーシュイン名曲集

【曲目】
1.ガーシュウィン:キャットフィッシュ・ロウ – 「ポーギーとベス」組曲(S. ボーエンによる管弦楽編)
2.ガーシュウィン:ポーギーとべス – サマータイム
3.ガーシュウィン:ショー・イズ・オン – バイ・シュトラウス
4.ガーシュウィン:パリのアメリカ人
5.ガーシュウィン:歌劇「ポーギーとべス」(抜粋)
6.ガーシュウィン:ガール・クレイジー – アイ・ガット・リズム
7.ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー(F. グローフェ、P. ホワイトマンによるピアノと管弦楽編)

【演奏】
クラロン・マクファーデン(ソプラノ)
バルト・ファン・カネヘム(ピアノ)
ジョス・ファン・インマゼール
アニマ・エテルナ

【CD】 ガーシュウィン: 「ラプソディ・イン・ブルー」, 「パリのアメリカ人」, 「ポーギーとベス」より, 他 ~歿後80周年・時代考証型ピリオド解釈~ アニマ・エテルナ 、 ジョス・ファン・インマゼール

ジャズ王といわれたポール・ホワイトマンは、シンフォニック・ジャズのコンサートを、ニューヨークのど真ん中、伝統の誇り高いエオリアン・ホールでやろうと心に決めていました。

ホワイトマンは久しくその構想を暖めていましたが、シンフォニック・ジャズ・コンサートの目玉になる曲の必要性を感じていました。

そんな中、当時、ホワイトマン楽団の一団と行動を共にしていた一人のピアニストに目を付けました。

ホワイトマンは、ガーシュインに作曲を依頼し、出来上がったのが「ラプソディ・イン・ブルー」です。

しかし、ガーシュインはまだオーケストレーションに精通していなかったので、同じくホワイトマン楽団のピアニスト兼編曲者として行動を共にしていたグローフェに編曲を依頼しました。

こうして二人の共同作業と言っていい「ラプソディ・イン・ブルー」は、1924年にニューヨークのエオリアンホールで初演されました。



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