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シャルル・ミュンシュ アルフレッド・コルトー 誕生日に聴く共演

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こんにちは、
ともやんです。

今日は、シャルル・ミュンシュの誕生日です。
アメリカのボストン交響楽団の首席指揮者を務めたドイツ系フランス人というヨーロッパ系ならではの多国籍指揮者でした。

いいこともあったかもしれませんが、それぞれの国の事情や歴史に翻弄された人生でもありました。

今回は、巨匠指揮者ミュンシュが、以下に指揮者になったかにスポットを当ててみたいと思います。

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シャルル・ミュンシュの生い立ち

指揮者シャルル・ミュンシュは、1891年9月26日当時ドイツ領だったシュトラスブルク(フランス語ではストラスブール)に生まれました。
現在は、フランス東部のライン川河畔の街ですが、地図で見るとライン川の対岸はドイツなのです。

日本で住んでいると、陸続きで国境を渡るというはないし、これからもないことを祈っていますが、ヨーロッパに行くと普通にあります。

仕事でベルギーのアントワープに何度も行きましたが、オランダ国境は車まで走るとすぐだし、パリなども350キロ程度なので、日本の感覚なら東京から名古屋に行くくらいでした。

しかもミュンシュが生まれたのは、19世紀の終わりですから、その後第一次、第二次の世界大戦を経験しています。

そしてその度にドイツ領になったりフランス領になったりしています。
当然住んでいる人たちには、迷惑極まることですが、後の音楽家となったミュンシュには、両国の文化に接したことは、悪いことではなかったようです。

ミュンシュの家系は、父親が教会のオルガニストで指揮者でもあったので、幼いことから音楽のある生活の中で成長しました。また兄弟や従兄弟なども音楽家になった人が多いので、ミュンシュは幼い頃からヴァイオリンを習い、自然と音楽を糧にする道を歩み始めました。そういうことから考えるとフランスとドイツの文化が融合する街で育ったのは良かったのかもしれません。

しかし、第一次大戦でドイツ軍に従軍し、前線で闘ったにもかかわらす、負傷しドイツも敗戦し、戦後はフランス領になってしまいました。
その後、いくつかの職業を経験し、父親のつてで、ライプツィヒのゲヴァントハウス管のコンサートマスターが空席になったので、試験を受けると見事合格。名門ゲヴァントハウス管のコンサートマスターとして活動を始めました。

しかし、ここでも歴史に翻弄されます。
ナチスが台頭してくると、ゲヴァントハウス管のコンサートマスターがフランス人というのは困るのでドイツ国籍を取るように迫られます。元々ドイツ人として生まれたので、ここでドイツ国籍を取っていたらのちのミュンシュはいなかったでしょう。

ナチスの政策を嫌ったミュンシュ、コンサートマスターを辞任してフランスの戻ります。
しかしゲヴァントハウス管ではフルトヴェングラーやワルターの指揮の下で演奏し、指揮者への意欲が生まれてきました。

そしてパリに向い、指揮者になる決意をするのです。その時ミュンシュはすでに41歳。これから下積みをするには時間がなさすぎます。

愛器グァルネリをパリ音楽院に学生に売り、自分が自腹でオーケストラを雇い、指揮者とデビューすることにしたのです。

ちなみにミュンシュの愛器を買ったのが、ヘンリク・シェリング。当時はどちらも無名でしたが、この20年数年後にお互い巨匠となった後共演しています。

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自前でコンサートは大成功

さて、オーケストラを雇うと言ってもリハーサルもあるので何日も契約する必要があります。またコンサートホールの料金もあるでしょう。チケット代もいくらつけたんだろう。

しかし、自前のコンサートなので、プログラムは好きなものに出来ます。
バッハのヴァイオリン協奏曲、ディッタースドルフの交響曲、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」ブラームス交響曲第1番だったそうです。

自伝では、コンサートの資金は、いくばくか貯金をかき集めたと語っていますが、夫人がスイスの大企業ネスレの創業者の孫だったことから、その方面からの援助も受けたことも推測されます。

いくら名門ゲヴァントハウス管のコンサートマスターの経歴があっても指揮者としては新人。しかし、この一世一代を賭けたコンサートは大成功を収め、それ以降著名なオーケストラからオファーが来るようになりました。

そしてデビューコンサートから僅か5年で、パリ随一のパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者となったのです。時は1937年。ミュンシュは46歳になっていたのです。

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コルトー ミュンシュ 名盤

今日は、フランスを代表したアルフレッド・コルトーの誕生日でもあります。1877年9月26日スイス生まれ。その2人が共演した録音が残っています。
ミュンシュとコルトーの共演、オーケストラはパリ音楽院管弦楽団の演奏。1935年と39年のものです。歴史的な貴重な録音です。

セザール・フランク – Cesar Franck (1822-1890)
交響的変奏曲 M. 46
Symphonic Variations

1.(14:31) Symphonie Variations

アルフレッド・コルトー – Alfred Cortot (ピアノ)
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 – London Philharmonic Orchestra
ランドン・ロナルド – Landon Ronald (指揮)
録音: 13 October 1934, EMI Abbey Road Studio No. 1, London

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カミーユ・サン=サーンス – Camille Saint-Saens (1835-1921)
ピアノ協奏曲第4番 ハ短調 Op. 44
Piano Concerto No. 4 in C Minor, Op. 44

2.(11:44) Allegro moderato – Andante
3.(13:12) Allegro vivace – Andante – Allegro
total(24:56)

アルフレッド・コルトー – Alfred Cortot (ピアノ)
パリ音楽院管弦楽団 – Paris Conservatoire Orchestra
シャルル・ミュンシュ – Charles Munch (指揮)
録音: 9 July 1935, EMI Abbey Road Studio No. 1, London

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モーリス・ラヴェル – Maurice Ravel (1875-1937)
左手のためのピアノ協奏曲
Piano Concerto for the Left Hand

4.(06:28) Lento – Piu lento – Andante
5.(04:43) Allegro –
6.(04:31) Lento – Cadenza – Allegro
total(15:42)

アルフレッド・コルトー – Alfred Cortot (ピアノ)
パリ音楽院管弦楽団 – Paris Conservatoire Orchestra
シャルル・ミュンシュ – Charles Munch (指揮)
録音: 12 May 1939, Paris

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カミーユ・サン=サーンス – Camille Saint-Saens (1835-1921)
ワルツ形式のエチュード
7.(04:27) Etude in the form of a Waltz

アルフレッド・コルトー – Alfred Cortot (ピアノ)
録音: May 1931, Small Queen’s Hall, Studio C, London

Franck / Ravel / Saint-saens / 交響変奏曲 / ピアノ協奏曲第4番 / 左手のためのピアノ協奏曲 / 他 コルトー / ロナルド / ロンドン・フィル / 他 輸入盤 【CD】

フランスのピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877~1962)が、自国フランスの協奏作品を演奏した録音を集めたCDです。

1930年代、コルトーが60歳前後の円熟期の録音ですが、なかでもサン=サーンスとフランクの録音は、当時はその規範となるべきものと見なされたものです。コルトーのピアノの師は、フランクの交響的変奏曲の初演者ディエメでした。

かれは師の遺風を継いでこの作品を愛奏、2回録音しており、このCDはその2回目の録音です。サン=サーンスとラヴェルでは名指揮者、ミュンシュとの共演を聴けます。



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