こんにちは、
ともやんです。
いまでもその当時のことはよく憶えています。
日本時間の1989年11月10日にベルリンの壁崩壊のニュースが流れました。
ソ連のゴルバチョフのペレストロイカ政策に始まり、東欧諸国の民主化運動に発展、
それがベルリンの壁崩壊につながりました。
僕は、当時仕事でモスクワに行き始めた頃で、なにか時代は変わるという胎動を肌で感じていました。
以下、ベルリンの壁に関するまとめ記事です。
ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer)は、1961年から1989年まで西ベルリンの周囲を取り囲む形で建てられていた壁である。
第二次世界大戦後の1949年に東西ドイツが成立し、東西間の国境が閉鎖されたが、市内が東西に分割された首都ベルリンでは東西の往来が自由であった。しかし相次ぐ西側への人口流出が東ドイツに深刻な影響を及ぼしたことから、1961年8月13日に突然東ドイツ(ドイツ民主共和国)が東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離して、後にコンクリートの壁を作った。西ベルリンを東ドイツから隔離して西ベルリンを封鎖する壁であったが、実質的には東ドイツを外界から遮断し自国の体制を守る壁であった。
このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった[1]。そして1989年秋の東欧革命に伴う東ドイツ国内の混乱の中、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、その日の夜に壁の前に多くの東ベルリン市民が押しかけて国境検問所のゲートが開き、数万人の市民が西ベルリンに入った。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。
ウィキペディアより
ベートーヴェン第九 バーンスタインの命を賭けた記念コンサート
以下、HMVに掲載されている記事ですが、
当時のバーンスタインが、まさに自分の命を削って臨んだコンサートであり、運営に携わった方々の並々ならぬ尽力がわかります。
1989年当時、このような世界的規模の記念コンサートを指揮できる人となるとバーンスタインしかいなかったでしょう。
帝王カラヤンは、壁崩壊の数か月前に惜しくも亡くなっていました。
1989年12月25日、ドイツの東西分離の象徴でもあったベルリンの壁が崩壊したことを記念した一大イヴェントが、レナード・バーンスタイン[1918-1990]が指揮したこの第九演奏会でした。
バーンスタインはここで、バイエルン放送交響楽団をメインに、計6つの楽団のメンバーによって特別に編成されたオーケストラを指揮し、これに東西ドイツの合唱団と東西ドイツ&英米のソリストが加わった豪華な布陣によるアンサンブルを指揮しています。
ちなみに6つのオーケストラの内訳は、西ドイツ・東ドイツに、ドイツの東西分離のきっかけとなったアメリカとソ連、それに第二次大戦時のドイツの敵国イギリスとフランスのオーケストラというもので、記念碑的な演奏会をさらに特別な物にしようという関係者の尽力が偲ばれます。
なお、バーンスタインはここで、ベルリンの壁が崩壊したという歴史的事実を祝うために第4楽章の歌詞の“Freude(歓喜)”を“Freiheit(自由)”に変更して歌わせています。当時のバーンスタインはすでに肺ガンに冒されており、しかも自身そのことを知っていたといいますから、ここでの渾身の指揮ぶりはまさに命がけのものだったのでしょう。
しかしバーンスタインは最後までエネルギッシュでした。この公演の直前には念願の改訂を終えたキャンディードをロンドンで収録、翌年にはウィーンでブルックナーの9番や、シベリウスの1番、マーラーの歌曲を指揮し、その後、バイエルンでモーツァルトの大ミサを指揮、2ヵ月後には札幌で大奮闘してPMFを成功に導き、そしてそれから3ヵ月の後に亡くなってしまいます。最後の演奏会はボストンでのものでした。HMVウェブサイトより
ベートーヴェン第九 ベルリンの壁崩壊記念コンサート
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven (1770-1827)
交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 Op. 125
Symphony No. 9 in D Minor, Op. 125, “Choral”
作詞 : フリードリヒ・フォン・シラー – Friedrich von Schiller
Ⅰ(18:05)Allegro ma non troppo, un poco maestoso
Ⅱ(10:44)Molto vivace
Ⅲ(20:14)Adagio molto e cantabile – Andante moderato
Ⅳ(28:57)Finale: Presto – Allegro assai
ジューン・アンダーソン – June Anderson (ソプラノ)
サラ・ウォーカー – Sarah Walker (メゾ・ソプラノ)
クラウス・ケーニヒ – Klaus Konig (テノール)
ヤン=ヘンドリック・ローテリング – Jan-Hendrick Rootering (バス)
バイエルン放送合唱団 – Bavarian Radio Chorus
ベルリン放送合唱団 – Berlin Radio Chorus
ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団 – Dresden Philharmonic Children’s Choir
シュターツカペレ・ドレスデンのメンバー – Dresden Staatskapelle, members
キーロフ管弦楽団 – Kirov Orchestra
ロンドン交響楽団のメンバー – London Symphony Orchestra, members
ニューヨーク・フィルハーモニックのメンバー – New York Philharmonic Orchestra, members
パリ管弦楽団のメンバー – Orchestre de Paris, members
バイエルン放送交響楽団 – Bavarian Radio Symphony Orchestra
レナード・バーンスタイン – Leonard Bernstein (指揮)
録音: December 1989, Live Recording, Schauspielhaus, Berlin, Germany
帝王カラヤンは同年7月に亡き、指揮は当代一のレナード・バーンスタイン。
オーケストラは、バイエルン放送響、シュターツカペレ・ドレスデン、キーロフ劇場響、ロンドン響、パリ管、ニューヨークフィルのそうそうたる楽団から、メンバーが参加。
バーンスタインは、感興がおもむくまま自由自在な指揮で、1回限りのコンサートに入魂の演奏をしています。
また、当時すでに自身の病気(肺がん)のことは知っていて、それだからこそ命を賭けた演奏と言えます。
また、合唱部分の歌詞も「FREUDE(喜び・歓喜)」を
「FREIHEIT(自由・独立)」
に変更しているなどやりたい放題ですが、歴史的な記念コンサートなのでゆるされている部分もあるかな、と思います。
録音では、前後の拍手も入っていますが、演奏終了後の熱狂した拍手の嵐は、東西ドイツ統一の歴史的な瞬間の高揚がビシビシ感じますね。
歴史的な記録が詰まったCDだと思います。
まとめ
ベルリンの壁崩壊という地球規模の自由と平和を象徴する出来事を記念してコンサートをするなから曲は、ベートーヴェンの交響曲第9番しかないでしょう。
また、その指揮者なら、バーンスタインしかいなかったと思います。
しかし、この歴史的コンサートにケチを付けるわけではありませんが、どうして中心になるオーケストラが、バイエルン放送響だったのでしょうか?
もちろん、バイエルン放送響は、世界屈指のオーケストラですが、ベルリンと言えば、世界最高峰のオーケストラがあるではありませんか。
これはバーンスタインとの契約の問題だったのでしょうか?
それとも、ベルリンフィルは、当時カラヤンが89年7月に亡くなった後、後任にまだ決まっていなかった状態でした。
アバドが、就任したのが翌年の1990年でした。
意外と、そんなところから参加出来なかったのかもしれません。
ちなみに参加楽員の中にもベルリンフィルのメンバーはクレジットされていません。
この歴史的コンサートにベルリンフィルの名前が見当たらないのが残念ですね。
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