こんにちは、
ともやんです。
1954年は20世紀のクラシック音楽の歴史の中で、記憶されべき年です。20世紀前半を代表した二人の巨匠が一人は引退をし、もう一人は、この世を去りました。
2人はまさに音楽を通して凄まじい闘いをしてきた人です。
単に演奏するだけではなく、共に理不尽な独裁者と闘い、政治に翻弄されてきた歴史があります。ただこの時代に生きたほとんどの音楽家がそうでしたが。それでもこの二人の生き方は象徴的でした。
一人はアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)。
もう一人は、ウィリヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)
今日はその一人、アルトゥーロ・トスカニーニ最後のコンサートの録音について書きたいと思います。
アルトゥール・トスカニーニ最後のコンサート
アルトゥール・トスカニーニ指揮
NBC交響楽団
「慟哭のトスカニーニの最後のコンサート」
1954年4月4日カーネギーホール
プログラムは、全てワーグナーの曲
・ローエングリン第1幕への前奏曲
・ジークフリートより森のささやき
・神々のたそがれよりラインの旅
・タンホイザー序曲とパッカナーレ
・ニュルンベルクのマイスタージンガー第1幕への前奏曲
ファイナルコンサート – ワーグナー・プログラム アルトゥーロ・トスカニーニ NBC交響楽団
録音当時トスカニーニは87才。
すさまじい音楽活動を送ってきた大指揮者トスカニーニは、記録では、前日のリハーサルで記憶障害をおこし立ち尽くす場面があったそうです。
トスカニーニ本人も彼のオーケストラとして結成されたNBC交響楽団も最後のコンサートとして覚悟していたことは想像に難くありません。
トスカニーニ 引退から再びアメリカへ
トスカニーニは、1930年にニューヨークフィルの常任指揮者になり1936年に高齢を理由に辞任しています。そしてイタリアに戻りました。もう引退するつもりだったようです。当時70才。
しかし、アメリカ音楽界は、なんとかしてトスカニーニに再びアメリカに来て欲しいと熱望していました。
特に熱心だったのが、NBC会長で、同時にその親会社RCAの社長でもあったデイヴィッド・サーノフでした。
そのサーノフの命令でトスカニーニを説得したのが、サミュエル・チョツィノフという人物で、ピアニストから音楽評論家になり、当時NBC音楽顧問をしていた人でした。
サーノフ自身は、トスカニーニに断られていましたが、諦めきれず、トスカニーニのために放送用オーケストラを創設して、ラジオを通して数百万人の人々に彼の音楽を聴かせる、そう口説けば復帰してくれるという目論見を持っていました。
しかし、命を受けたチョツィノフは、頑固なトスカニーニは、一度断った話を覆すことはない、またトスカニーニ自身、レコードやラジオに対して懐疑的な考えを持っているので、いくら専属のオーケストラを創設しても難しいと難色を示しましたが、サーノフからはとにかくミラノで会って来いと指示されました。
ミラノではなんとかトスカニーニに会えたもののニューヨーク復帰の話には全く乗ってこなかったそうです。
時間ばかり過ぎる、そんなある日トスカニーニと旧知の仲の人物と訪問した際、上機嫌だったこともあり、ある逸話を持ち出し、トスカニーニに復帰の承諾を取ることが出来ました。
その逸話というのは、ミラノまでの船旅の中で読んだある雑誌からの逸話だったのです。
トスカニーニの第九を聴いたカナリアが、それまで全く大人しくしていたのに、第九の合唱の部分で一緒に歌い出したという話が、雑誌に載っていたのです。
チョツィノフは、これは使えると思いいざという時のためにとっておいたのでした。
そしてその日、カナリアさえ感動させる貴方の音楽を放送すれば多くの人が感動し、慰められるはずです、といい、トスカニーニから「もちろん、そうだ」と承諾を取ったのでした。
トスカニーニ 最後のコンサート 運命の日
1937年にトスカニーニのためにNBC交響楽団が創設されてから約17年間、多くのレコーディングとコンサートを行ってきたトスカニーニは、高齢による記憶障害で限界とみてもう契約の更新をしないことにしました。
そして迎えた最後のコンサート。
ファイナルコンサート – ワーグナー・プログラム アルトゥーロ・トスカニーニ NBC交響楽団
冒頭のローエングリンを聴いた瞬間、無感情で要られる音楽ファンはいないでしょう。
記録では、トスカニーニが途中で指揮不能になるではないかと対策もして臨んだコンサート。コントロールルームには、もしもの時のために代役指揮者としてカンテルリが待機していました。
しかし、その創り出される音楽のなんと瑞々しいことか。
20世紀最大の指揮者は、最後まで偉大でした。しかもステレオ録音で残っているのが嬉しい限りです。
まとめ
トスカニーニが、最後のコンサートを行っている時、ヘルベルト・フォン・カラヤンは、日本にいました。
NHK交響楽団の招きで客演で来ていたのです。
若い頃、カラヤンはトスカニーニの追っかけをするくらい彼の演奏に心酔していました。そしてその演奏を聴き、自分のものにしようとしていたようです。
僕は、40年代から50年代のカラヤンの演奏からはトスカニーニの影響は感じられると思いますが、後年のカラヤンは独自の道を歩んだように思います。
これについてはまた改めて書きたいと思います。
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