フルトヴェングラーのベートーヴェン第5番 最後の年
フルトヴェングラーはベートーヴェンを最も得意として
特に第5番の録音は12種類残されています。
これは彼のベートーヴェンの録音では、一番多く、次いで第3番”英雄”の9種類、第9番が8種類、第6番”田園”の7種類と続きます。
最も少ないのが第2番の1種類で、第8番が3種類、第4番と第7番が5種類となっています。
評論家・故宇野功芳氏の著書「フルトヴェングラーの全名演名盤」には、全ての録音に対してコメントされていて、氏は、⑥⑩⑫をベスト3としてそれに⑨が続くと書かれています。録音と内容を考えると僕も同感ですが、
実況録音が多く、スタジオ録音が少ないのが彼の人気と録音に対する姿勢が分かるような気がします。
現在僕の手元には9種類あり、全て素晴らしいですが、亡くなった年の3種類には、特に感慨深いものがあります。
戦前
①1926年10月16日、30日 ベルリンフィル スタジオ録音・SP☆
②1937年10月08日、11月3日 ベルリンフィル スタジオ録音・SP☆
戦中
③1939年09月13日 ベルリンフィル 放送録音?
④1943年06月27日~30日 ベルリンフィル 実況録音・LP☆
戦後
⑤1947年05月25日 ベルリンフィル 実況録音☆
⑥1947年05月27日 ベルリンフィル 実況録音☆
⑦1950年09月25日 ウィーンフィル 実況録音
⑧1950年10月01日 ウィーンフィル 実況録音
⑨1952年01月10日 ローマ・イタリア放送響 実況録音☆
⑩1954年02月28日、3月1日 ウィーンフィル スタジオ録音☆
⑪1954年05月04日 ベルリンフィル 実況録音☆
⑫1954年05月23日 ベルリンフィル 実況録音☆
☆印付きが僕の所有
フルトヴェングラー最後の1年
フルトヴェングラーにとって最後の年となった1954年は、記録で見てもフルトヴェングラーは多忙を極めていました。後からみればそれが寿命を縮めてと考える向きもありますが、
それはあくまで後年の見解であり、当の本人も周囲もまさか亡くなるとは思ってもいなかったでしょう。
フルトヴェングラーは、53年12月にベルリン、ウィーンのコンサートで指揮をして、54年3月まで休暇に入ります。しかし、その間は自作の交響曲第3番の作曲を行っています。
2月28日と3月1日は、上記の⑩の録音をウィーンフィルと行っています。
そして3月12日には、ロンドンのフィルハーモニア管に客演し54年の演奏活動が始まりました。
⑩の録音に関しての宇野功芳氏のコメントです。
前略
フルトヴェングラーは、遅めのイン・テンポを終始守り抜き、芝居気も少なく、楽器のバランスは常に最上に保たれ、ピアニッシモも強調されない。
外側から付け加えられた迫力や効果はどこにも見られず、まことに豊かで音楽的だ。それでいてひびきは壮麗、フォルティッシモには精神の嵐が吹きしきり、スケールは極大で、余裕を持った緊迫感は素晴らしい。
中略
実に巨匠の行き着いた最後の境地というべく、ドイツの伝統の上に築き上げ、花咲いたフルトヴェングラーの個性であり、芸術なのである。
ロンドンの後、空路でベネズエラのカラカスに行き、現地のオーケストラに客演。これが3月19日と21日。
そしてすぐヨーロッパに戻り、26日にチューリッヒのコンサートに客演。
30日はシュツットガルト、4月1日と2日は、ハンブルクでベルリンフィルと合流し、ベルリンに戻って、4日から6日コンサート。
次は、10日から17日はウィーンに行き、ウィーンフィルと5回のコンサートを行っています。
4月25日から27日はベルリンで三日連続のコンサートを行い、この後、ベルリンフィルとの結果として最後のツアーに出かけます。
ツアーは、4月28日のハノーヴァを皮切りに、ビーレフェルト、ケルンとドイツ国内を回り、5月3日にはパリ(⑪はその時の録音)、以降、リヨン、ジュネーブ、ローザンヌ、ミラノ、フィレンツェ、ペルージャ、ローマ、トリノ、ルガーノ、チューリッヒ、フライブルクとヨーロッパ各地を回り、
ドイツに戻って、バーデンバーデン、カールスルーエ、マンハイム、カッセルを経てベルリンへ。
ベルリンでは、5月23日~25日まで三日連続のコンサートを行い、30日はウィーンでウィーンフィルのコンサートで振っています。
この頃は、この精力的な活動から半年後に死が待っているとは、当の本人も周囲も全く思ってはいなかったでしょう。
6月に入ってもスイスのジュネーブとローザンヌに行き、スイス・ロマンド管に客演しています。ここで53年/54年シーズンは終わり、7月半ばまでは一応休めます。
7月後半からザルツブルク音楽祭が始まり、ここでウェーバーの「魔弾の射手」モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を5回ずつ指揮、その合間を縫って、8月9日はバイロイトでベートーヴェンの第九を指揮して、ルッツェルン音楽祭にも出演。またザルツブルクに戻り、残りのオペラとコンサートの指揮をしました。
9月になり、ベルリンの芸術週間で、19日、20日でベルリンフィルを指揮。
この時の公演後の食事の席で、後にフルトヴェングラーの伝記を書いたクルト・リースに「ベルリンで指揮するのはこれが最後だ」と言ったそうです。
意味深な言葉ですが、フルトヴェングラーは既に聴覚の障害も抱えていたのでした。
結果としてこれが最後のコンサートになってしまいました。
その後、ウィーンで9月28日から10月6日に掛けて、EMIのた
め、ウィーンフィルとワーグナーの「ワルキューレ」を録音しました。
フルトヴェングラー逝く
ウィーンでの「ワルキューレ」の録音が終わった後、フルトヴェングラーは、ベルリンにより、ベルリンフィルのメンバーが招集されました。
この時が、彼らがフルトヴェングラーの肉声を聞いた最後となったのです。
招集の理由は、あるリハーサルのためでした。フルトヴェングラーの補聴器のテストだったのです。彼の聴覚の生涯は公然となっていたのでした。
しかし、補聴器のテストは思わしくなく、フルトヴェングラーは、集まった団員に対し
「ありがとう、みなさん。もう充分です。さようなら」と言ってスイスに自宅に戻りました。
スイスの自宅戻ると熱っぽいので医者を呼ぶと肺炎になりかかっていると診断されます。
フルトヴェングラーは、以前にも肺炎に掛かっていました。医師はすぐ治るだろうと診断しています。
しかし、この時から1ヶ月と少しの11月29日、フルトヴェングラーは帰らぬ人となりました。
享年68才と10ヶ月。
長命の多い指揮者の中では、むしろ早すぎる死と言っていいくらいの年齢でした。
しかし、最後は自分の死を覚悟していたようで、医師も「生きる意欲を失った人を助けることは出来ない」と語ったそうです。
フルトヴェングラーのベートーヴェン 最後の第5番
フルトヴェングラーの第5番の録音は、亡くなる半年前のものが最後です。
⑪⑫でツアーでのパリとベルリンに戻ってからの録音です。
⑩のスタジオ録音ではあれだけ客観的に指揮をしたフルトヴェングラーですが、やはりライヴだと違います。
ここでも宇野功芳氏のコメントを引用します。
表現は一挙に1947年に戻ってしまったようだが、いうなれば、あのおどろくべきドラマを最晩年の枯れたスタイルの中に同化させようと試み、見事に成功を収めたのである。
フルトヴェングラーにはもっと長生きしてほしかった。
ワルターのように専用のレコーディングオーケストラを用意して、
健康に留意しながら、クリアなステレオ録音を残してほしかった。
叶わぬ夢ですが、だから永遠の神話、伝説としてフルトヴェングラーの人気は語り継がれるのでしょう。
※参考文献
「カラヤンとフルトヴェングラー」中川右介著
「フルトヴェングラーの全名演名盤」宇野功芳著
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