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クララ シューマン ピアノ曲 小倉貴久子

シューマン
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こんにちは、
ともやんです。

5月20日は、作曲家ロベルト・シューマンの妻クララ・シューマンの命日です。
1896年5月20日に76年の生涯を閉じました。

ピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークを父としてライプツィヒに生まれ、父のもとで4歳からピアノを始めました。

9歳の時にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾いて、現在のドイツ全域にまで天才少女としての名を知られるようなりました。

その頃、10歳年上のロベルト・シューマンが父にピアノを師事し通うようになり、その数年後に二人は恋愛関係になりました。

一時は父に交際を反対されながら、1840年に二人は結婚。当時クララは20歳でした。
結婚後は、8人の子供を設けましたが、その間ヨーロッパン各地での演奏活動も続け、かなりのハードスケジュールだったと残されている手紙などから推測できます。
なお、8人の子供のうち、長男は1歳で亡くし、三男はのちに自殺しています。

1856年には夫ロベルト・シューマンが、精神疾患から46歳で病院で死去。
その後は、演奏活動とピアノ教師として生計を立てていきました。

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クララ シューマンとブラームス

クララに関して、よく14歳年下のブラームスとの関係を取りざたされますが、それは、ブラームスが生涯独身だったこと、二人がクララが亡くなるまで親交があったこと。そして何よりもクララの死後1年も立たない内にブラームスも後を追うように他界したことなどからの想像で、確証する証拠は何もないそうです。

これはあくまで僕の個人的な見解ですが、ブラームスが師シューマンの門を叩いたのが20歳の時。その時、クララは34歳。ブラームスは大人の女性への憧れば持ったとは思います。

シューマンの死後も律儀なブラームスは、師の妻として敬い、憧れや思いは封印して親交を続けたと思います。

大体、内向的で優柔不断なブラームスは、思いを秘めていたとして思い切って告白したりましてや押し倒すなんてできなかったでしょう。

ただブラームスは、クララの存在をずっと心の支えとしていたことは想像に難くありません。

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小倉貴久子 クララ シューマン ピアノ作品集

1.クララ・シューマン:
前奏曲とフーガ 変ロ長調 作品16-2

2.ロベルト・シューマン:
クライスレリアーナ 作品16

3.クララ・シューマン:
ロベルト・シューマンの主題による変奏曲 作品20

4.ロベルト・シューマン:
幻想曲 ハ長調 作品17

小倉貴久子(フォルテピアノ)
フォルテピアノ:J.B.シュトライヒャー制作(1845年 ウィーン)
録音:さくらホール 2014年11月26~28日[ライヴ録音]

星の冠 ~ロベルト&クララ シューマン~ 小倉貴久子

シューマン夫婦が多くのピアノ作品を書いた当時のフォルテピアノ、1845年のJ.B.シュトライヒャーを使用した小倉貴久子の演奏。
シューマン夫婦の互いの愛から生まれ出た作品が、深い情感と共感を持って演奏される。豊かな温かさを持つ演奏、繊細きわまりない最弱音などこのフォルテピアノならではの音色により、シューマン夫婦の音楽が新鮮に生まれ変わる。2014年、プラザウエストさくらホールにて録音。

小倉貴久子さんは凄い人です。

東京藝術大学を経て同大学大学院ピアノ科修了。アムステルダム音楽院を特別栄誉賞”Cum Laude”を得て首席卒業。1988年第3回日本モーツァルト音楽コンクール、ピアノ部門第1位。1993年ブルージュ国際古楽コンクール、アンサンブル部門第1位。
1995年には同コンクール、フォルテピアノ部門で9年ぶり史上3人目の第1位と聴衆賞を受賞し話題を呼びました。

『音楽の玉手箱』や『ベートーヴェンをめぐる女性たち』、『モーツァルトの生きた時代』『モーツァルトのクラヴィーアのある部屋』などのユニークなコンサートシリーズを展開されています。

また浜松市楽器博物館でのレクチャーコンサートやコレクションシリーズでも高い評価を得られています。



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