こんにちは。
ともやんです。
チェリビダッケとベルリンフィルによる戦後間もない頃のライブ録音をご紹介します。
曲目は、まだ作曲されてから数年しか経っていないショスタコーヴィチの交響曲第7番。
この録音は、2つの意味で歴史的価値の高い録音です。
一つは、ヒトラー・ドイツに対するソヴィエト人民の英雄的戦いを描いた曲が、ドイツで初めて演奏されたこと。
二つ目は、フルトヴェングラーが、ドイツでの非ナチ化審理で無罪を言い渡された直後の演奏で、フルトヴェングラーも聴衆に中で聴いていた。
ただ、フルトヴェングラーは、まだ復帰できないでいた。
それは連合国が、この決定を批准するのは翌46年4月の予定でした。特にアメリカ国内で反対の声が高まっていたのです。
チェリビダッケ 自転車でやって来た青年
1946年12月22日、ベルリンフィルの指揮して歴史的コンサートを行っていたチェリビダッケは、当時まだ34歳の若い指揮者でした。
しかも1年と少し前まで、全くの無名の指揮者でしかも本格的にオーケストラを指揮した経験もない若者でした。
1945年5月9日、ドイツ政府は連合国に対する降伏文書に署名、終戦となり、ドイツに政府が存在しなくなりました。
政府は無くなってもそこに住み人々の生活は営まれます。
1週間後の5月16日には、ベルリンの映画館は営業を開始。
ベルリンフィルも5月26日は、本格的な活動を開始しています。
その指揮台に立っていたのが、レオ・ボルヒャルト。
1899年ロシア生まれのドイツ人で、ワルター、クレンペラーのもとでアシスタントを務めデビューは、1933年1月。その頃からベルリンフィルにも招かれ指揮をしていました。
また反ナチ組織の一員でもあり、地下活動もしていた活動家でした。
ボルヒャルトは、ナチスの崩壊を見届けるとベルリンを占領していたソ連司令官に掛け合いベルリン・フィルの団員を集めて、1945年5月26日の戦後初の演奏会を開きました。
このまま行けば、ボルヒャルトが、戦後のベルリン音楽界のリーダーになっていたかもしれません。
しかし、運命とは冷酷です。
3ヵ月後の8月23日、ボルヒャルトは、米軍兵が誤って打った銃弾に倒れ帰らぬ人となりました。
ベルリンフィルは、急遽次の指揮者を探さなければならなくなりました。
そこでオーディションが開かれました。
オーディションには10数名がやってきましたが、ベルリンフィルの指揮を任せられるような人物がいませんでした。
ところがオーディションの終わり頃、自転車に乗った一人の若者がやってきました。
それが当時33歳のチェリビダッケだったのです。
チェリビダッケは、オーディションでオーケストラの団員達をしっかり惹きつけることに成功しました。
そして8月29日の演奏会で指揮をして成功を収めたのです。
とりあえず3ヵ月間、ベルリンフィルを指揮することになり、翌1946年1月には、フルトヴェングラーが復帰するまでという言う条件付きで、音楽監督に就任しました。
だから事実上、チェリビダッケがベルリンフィルの4代目首席指揮者なのです。
チェリビダッケ&ベルリンフィル ショスタコーヴィチ交響曲第7番
ドミートリー・ショスタコーヴィチ – Dmitry Shostakovich (1906-1975)
交響曲第7番 ハ長調 「レニングラード」 Op. 60
Symphony No. 7 in C Major, Op. 60, “Leningrad”
1.(26:11) I. Allegretto
2.(11:47) II. Moderato poco allegretto
3.(22:44) III. Adagio
4.(18:42) IV. Allegro non troppo
total(79:24)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 – Berlin Philharmonic Orchestra
セルジュ・チェリビダッケ – Sergiu Celibidache (指揮)
録音: 22 December 1946
※ライブ録音のため咳払いやスコアをめくる音も捉えています。
『ベルリン・フィル~名演奏集[10CD]』
ベルリン・フィルによる歴史的名演を集めた激安な10枚組。F.レーマン、ベーム、シューリヒト、ヨッフム、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、E.クライバー、チェリビダッケ、カラヤンといった名匠達による有名な演奏を収録した好企画盤です。
チェリビダッケ ドイツで戦後初のショスタコーヴィチ交響曲第7番
1946年12月22日、ヒトラー・ドイツに対するソヴィエト人民の戦いを描いた曲が、ベルリンで、ドイツを代表するオーケストラによって初めて演奏されました。
演奏が終わると会場にいたソ連司令官が挨拶しました。
それに続いて会場にいたフルトヴェングラーが、舞台まで行き、チェリビダッケと握手して「いい演奏だった」と声を掛けました。
聴衆は、二人に嵐のような拍手を送りました。
最初、録音時期をみて多少の違和感を感じました。
第二次終戦後すぐに敗戦国ドイツにおいてソ連の作曲家の曲を演奏するのはどうなんだろう、という単純な疑問でした。
第二次大戦においてドイツもソ連もお互いに甚大なる被害を被っています。
この曲は1941年に作曲され、その頃、ソ連はナチスドイツ軍に包囲され、激しい空爆を受けていました。
特にレニングラードは被害甚大で、戦後のソ連政府の死者数を67万人と発表していますが、実際には100万人に達しているのではという説もあり、第二次大戦の中でももっとも凄惨な場所だったのです。
初演は翌42年3月で当時ソ連政府が移っていたクイビシェフ(現サマーラ)で初演。
1945年に出版され、レニングラード市(現サンクトペテルブルク)に捧げられました。
チェリビダッケが演奏した46年は、出版されてからまだ2年目、作曲されてからまだ5年目という時期。
何故この曲を演奏会で選んだのでしょうか?
この交響曲は、戦争の惨状、平和への憧れ、勝利への凱歌を効果的に表現しているので、もしかして、戦争直後において戦争の惨状と平和の祈りを込めたかったのでしょうか?
それとも単に曲が素晴らしいからだけなのでしょうか?
それともチェリビダッケは、ルーマニア人なのでもっと複雑な理由があったのでしょうか?
録音は音質的に十分鑑賞に堪え得るものです。
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