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カラヤン ブルックナー 交響曲第7番 最後の録音

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こんにちは、
ともやんです。

ヘルベルト・フォン・カラヤンは、1908年4月5日、モーツァルトと同じザルツブルクに生まれました。

だから今日が生誕114年の誕生日ということになります。

全盛期は、ベルリン・フィル、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ザルツブルク音楽祭などの音楽監督、芸術監督などを兼任し帝王とまで言われました。

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カラヤン 生涯最後の年

ヘルベルト・フォン・カラヤンは、1989年7月16日自宅で81歳の生涯を閉じました。

既に体力的にはかなり衰えていましたが、翌90年にはウィーン・フィルとの日本公演が予定されていたし、2年後の91年、モーツァルトの没後200年に備えて、ザルツブルク音楽祭でモーツァルトの作品を集中的に取り上げる計画も練っていました。

なんと言っても当時のソニーの大賀社長との商談中での出来事だったのです。
最後の言葉が、「いまは、まだ、その時ではないのだが」と伝えられていて、カラヤン自身まだやり残したことがたくさんあったことを思わせます。

まさに生涯現役を貫いたとも言えます。

1989年3月18日から27日までザルツブルクでイースター音楽祭が開催されました。カラヤンは、『トスカ』を2回、その他2種類のプログラムを2回指揮し、最終日の3月27日にベルリンフィルとヴェルディの「レクイエム」を演奏しました。
これが生涯最後のベルリン・フィルとの共演になったのです。
史料によると1938年4月8日に30歳になったばかりの青年カラヤンが、ベルリン・フィルの指揮台に立ってから通算1525回目のコンサートだったそうです。

さて、1989年のイースター音楽祭にゲオルグ・ショルティが初めて客演しました。ショルティはこの時20数年ぶりにカラヤンと会ったそうですが、あの颯爽としていたカラヤンが、人の手を借りなければ歩けないほど衰えている姿を見て驚いたそうです。

イースター音楽祭が終わるとカラヤンは、ウィーンに向かいました。ウィーン・フィルとブルックナーの交響曲第7番の録音とコンサートをするためでした。
先にレコーディングを行い、4月23日にコンサート行いました。

その時の録音が以下にご紹介するCDです。

結果として最後になった録音で当然カラヤン自身は、そんなことは全く思っていなかったでしょう。しかし、ブルックナーの7番を選んだ段階からもしかしてそんな予感があったのかもしれません。

この交響曲第7番は、ブルックナーが尊敬するワーグナーの死を予感しながら作曲し、しかもその創作中に訃報を知るのでした。そして第2楽章のアダージョは、ワーグナーへの哀惜の念をもって書き進めたと知人に語っています。

そんなことを思いながらアダージョを聴くと何かこみ上げてくるものがあります。

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カラヤン ブルックナー 交響曲第7番 最後の演奏

アントン・ブルックナー – Anton Bruckner (1824-1896)
交響曲第7番 ホ長調 WAB 107 (1885年稿・ハース版)
Symphony No. 7 in E Major, WAB 107 (original 1885 version, ed. R. Haas)

1.(19:42) I. Allegro moderato
2.(23:15) II. Adagio. Sehr feierlich und sehr langsam
3.(10:11) III. Scherzo: Sehr schnell
4.(13:00) IV. Finale: Bewegt, doch nicht schnell
total(66:08)

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 – Vienna Philharmonic Orchestra
ヘルベルト・フォン・カラヤン – Herbert von Karajan (指揮)
録音: April 1989, Grosser Saal, Musikverein, Wien, Austria

ブルックナー:交響曲第7番 ヘルベルト・フォン・カラヤン

宗教的荘厳さと深い抒情性を湛えた交響曲第7番は卓越した作曲技法によって作曲家の名声を一挙に高めた交響曲で、その第2楽章のコーダでは敬愛するワーグナーへの追悼の意を表したことでも知られている。このディスクはヘルベルト・フォン・カラヤン最後の演奏会のライヴ録音で、同時に彼の膨大な録音活動に終止符を打った記念碑的な演奏でもある。



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