こんにちは、
ともやんです。
1938年4月8日、カラヤンは、ベルリンフィルへのデビューを飾りました。
しかも、ベルリン州立歌劇場の指揮もするようになり、ベルリンでの活躍が目立つようになってきました。
当初は、カラヤンの存在を気にも留めていなかったフルトヴェングラーですが、徐々に無視できない存在となってきました。
そして、カラヤンのベルリンデビューから約1年後、フルトヴェングラーがカラヤンを敵視するようになる大きなきっかけとなる出来事がおきました。
それは、39年4月15日にカラヤンは、ベルリンフィルとの初めての録音を行ったのですが、録音した曲が、チャイコフスキーの第6交響曲“悲愴”だったのです。
なぜなら、これより約半年前、フルトヴェングラーもベルリンフィルと“悲愴”を録音していたからです。
当然、フルトヴェングラーと言わずとも、カラヤンの行動は、自分への挑戦状を受け取ったことは、想像にし難くありません。
結局、このフルトヴェングラーのカラヤンに対する敵意というか嫉妬が、それ以降のカラヤンがほとんどベルリンフィルを指揮できなくなった大きな要因となりました。
カラヤンの名盤 生涯最初のチャイコフスキーの悲愴
カラヤンは、生涯に正規で7回もチャイコフスキーの交響曲第6番“悲愴”を録音しています。
最初が、この1939年4月15日のベルリンフィルとのもの。
最後が、1984年1月のウィーンフィルとのもの。
ベルリンフィルと4回、ウィーンフィルと2回、フィルハーモニアと1回録音しています。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー – Pyotr Il’yich Tchaikovsky (1840-1893)
交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 Op. 74
Symphony No. 6 in B Minor, Op. 74, “Pathetique”
1.(18:05) I. Adagio – Allegro non troppo
2.(08:13) II. Allegro con gracia
3.(08:08) III. Allegro molto vivace
4.(09:41) IV. Finale: Adagio lamentoso
total(44:07)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 – Berlin Philharmonic Orchestra
ヘルベルト・フォン・カラヤン – Herbert von Karajan (指揮)
録音:1939年4月15日
チャイコフスキー:交響曲第6番≪悲愴≫ スメタナ:交響詩≪モルダウ≫
僕は、この録音をナクソス・ミュージック・ライブラリーのストリーミング配信で聴いていますが、80年近く前の録音とは信じられないくらい鮮明です。
フルトヴェングラーの録音と半年しか違いませんが、フルトヴェングラーがEMI、カラヤンがドイツ・グラモフォンというレコード会社の違いもあるのでしょうか?
さて、演奏内容は、すでにカラヤンのスタイルは完成されています。
きびきびとしてスマートで、痛快な快演です。
カラヤンの名盤 録音におけるカラヤンとフルトヴェングラーの差
この僅か基幹的に6か月間の違いで録音された“悲愴”を聴いて、残された品質の差は歴然です。
フルトヴェングラーの録音も悪くありません。
しかし、カラヤンの録音のグレードが良すぎるのです。
カラヤンは、レコードという新しいメディアの特質を見抜き、どうすれば「いい演奏」として録音されるかすぐに会得しました。
音の鮮明さと、正確さ、そして美しさが必要であることを既に理解していました。
そして、カラヤンはそのような演奏が出来ました。
一方、フルトヴェングラーは、悲愴の録音を自分とカラヤンを比較して、カラヤン盤の方が優れていることを認識したにちがいありません。
生の演奏では絶対自分の方が上という自負したから、余計フルトヴェングラーは焦ったことと思われます。
なぜなら後世に残るのは録音の方だからです。
まとめ
フルトヴェングラーは、レコードを認めながらもそれを充分に活用できませんでした。
一方、レコードを認めそれを充分活用したのはカラヤンでした。
結局、フルトヴェングラーが悩み苦しむわけです。
彼はどうしればいいレコードが作れるか分かっていただけに、そうしようと思えば思うほど、空回りました。
つまりこれからレコードの時代がやってくるという、認識があればあるほど、フルトヴェングラーは、カラヤンに脅威を感じたのでした。
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