メルマガ登録

ジョージ・セルの名盤 ベートーヴェン交響曲第9番”合唱付き”

[広告] 当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

こんにちは。

ともやんです。

 

セルの第九の記事を書くにあたり、改めて聴いてみました。

 

実は、セルを聴く前に有名なフルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管の1951年ライブを聴いたのですが、これは比べようがないな、という実感を得ました。

 

つまりフルトヴェングラーの大河ドラマのような抒情的な演奏と機能美を追及したセルの演奏では、比べる舞台が違う、ということです。

 

あるスポーツ番組で、元ヤンキースの松井秀喜氏にインタビュアーが、「いままで一番凄いバッターと思ったのは誰ですか?」という質問に、うーんと考える松井氏に、インタビュアーがイチロー選手ですか?と追っていうと、松井氏は即座に「いや、比べる舞台が違う」ような意味のことを即答していました。

 

結局、松井氏は、落合博満氏を挙げていました。

つまり、松井氏もイチロー氏もともに凄いバッターですが、タイプとして比較する舞台が違うのです、

 

結局、フルトヴェングラーとセルは、演奏の良し悪し、好き嫌いを比べる舞台がまったく違うので、比べることがナンセンスだということです。

 




セルの究極の名演 ベートーヴェン交響曲第9番が凄い

 

ハロルド・ショーンバーグという有名な評論家がいて、有名な著書として『名ピアニストたち』や『偉大な指揮者たち』があります。

その『偉大な指揮者たち』で、ジョージ・セルを扱っていて、セルについて次のように書いています。

 

“セルはアンサンブルに関しては狂信主義者である。彼はまるで室内楽でもやるみたいにオーケストラを扱い、100人を越す楽員たちの一人一人が他のメンバーの演奏に注意深く傾聴するところまで、訓練しようと望む。彼は自分は水平線に-つまりポリフォニックに-きくが、たいていの指揮者はモノディックな聴き方をしていると考えている。”

 

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン – Ludwig van Beethoven (1770-1827)
交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」 Op. 125
Symphony No. 9 in D Minor, Op. 125, “Choral”
作詞 : フリードリヒ・フォン・シラー – Friedrich von Schiller

クリーヴランド管弦楽団 – Cleveland Orchestra
ジョージ・セル – George Szell (指揮)
アデーレ・アディソン(ソプラノ)
ジェーン・ホブソン(メッゾ・ソプラノ)
リチャード・ルイス(テノール)
ドナルド・ベル(バリトン)
クリーヴランド管弦楽団合唱団
合唱指揮:ロバート・ショウ

 

スポンサーリンク

【SACDハイブリッド】 ベートーヴェン: 交響曲全集 (2016年DSDリマスター) (SACDハイブリッド)<完全生産限定盤> ジョージ・セル 、 クリーヴランド管弦楽団

 

 

~究極のクオリティで蘇るセル&クリーヴランド黄金時代の名演~
当コレクションの第1弾として、20世紀を代表する名指揮者、ジョージ・セルの名演2タイトルが装いも新たに復活。1897年にブダペストに生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーンで育ったセルは、神童ピアニストとして音楽活動を開始し、やがて欧米各地の歌劇場のポストを歴任し、作曲家シュトラウスの厚い信任を得るほどの卓越した指揮者へと脱皮。ナチズムの台頭と第2次大戦の勃発によってアメリカへ移住し、戦後の1946年にはクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任。亡くなる1970年まで四半世紀にわたって献身的に同オケを育て上げ、世界的な名声をもたらしました。このコンビはソニー・クラシカル(米コロンビア)にモノラル~ステレオ期にかけて多数の名盤を残していますが、今回はその中でも最重要の位置を占めるベートーヴェンの交響曲全曲と序曲集を取り上げます。録音以来ソニー・ミュージックのテープ・アーカイヴに厳重に保管されてきた門外不出の3チャンネル・オリジナル・アナログ・マスターを外部スタジオに持ち出した上で万全の状態で再生し、今回の発売のために新たに2チャンネルへのリミックスとDSDリマスタリングを行なうことで、原音に刻み込まれた圧倒的な輝きがこれまでにないほど鮮明に蘇ります。国内盤CDとしては今回が初の全集ボックス化。2004年以来12年ぶりのニュー・リミックス&DSDリマスタングとなります。

 

 



最後に

 

ジョージ・セルのベートーヴェンでは、第3番“英雄”のLPに一時聴き惚れていて繰り返し聴いていた頃があります。

 

明快で颯爽として推進力のある演奏は、英雄の曲想に相応しいと感じので、その現代オーケストラの極致のような合奏力に圧倒されたためだと思います。

この第九も同じことが言えます。

 

この演奏に触れたあと朝比奈隆の晩年の演奏に触れるともどかしくなるかもしれないと思いました。

まあ、もちろん目指すものは違うのですが。

 




スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました