こんにちは、
ともやんです。
ヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898-1973)は、オーストリア人を母親にキエフに生まれました。
1911年に家族に連れられウィーンに転居し、同地でフランツ・シュレーカーほかに師事して、東洋哲学、作曲を学びました。
その後、ベルリンに移ってヴィルヘルム・フルトヴェングラーの助手を務めながら、1920年代からはウィーン交響楽団、ベルリンフィルなどを指揮し、デュッセルドルフ歌劇場の音楽監督になりました。
※キエフ
しかし、ナチスが権力を掌握するとユダヤ系のため亡命を余儀なくされ、1940年に渡米、最終的にアメリカ国籍を取得しました。
73年にロンドンで他界しています。
ホーレンシュタインの名盤 ブラームス交響曲第1番
ヨハネス・ブラームス – Johannes Brahms (1833-1897)
交響曲第1番 ハ短調 Op. 68
Symphony No. 1 in C Minor, Op. 68
Ⅰ(13:46)Un poco sostenuto – Allegro – Meno allegro
Ⅱ(09:31)Andante sostenuto
Ⅲ(04:27)Un poco allegretto e grazioso
Ⅳ(16:39)Adagio – Piu andante – Allegro non troppo ma con brio – Piu allegro
total(44:23)
ロンドン交響楽団 – London Symphony Orchestra
ヤッシャ・ホーレンシュタイン – Jascha Horenstein (指揮)
録音: 29 and 30 January 1962, London, England
ブラームスの交響曲第1番は、驚くべき名演です。
初めて聴いた時は度肝を抜かれました。
第1楽章は、ゆったりしてテンポで開始されますが、力が漲っている演奏で、キメの部分ではティンパニの強打が活かされ、遅めのテンポを一貫させながらも弛緩することなく、再現部に入る部分や要所要所で念を押すようにテンポを落とし効果を出しています。
全体として緊張感と凄みのある演奏です。
必要な部分での金管の咆哮とティンパニの強打が効果的に使われています。
第2楽章でも、ゆったりとしてテンポながら甘美さは全くなく、厳しく透徹した演奏です。
第3楽章、終楽章と続きますが、遅めのテンポを一貫させながら、厳しさと気迫のこもった演奏で、第1楽章同様、要所要所で金管の強奏とティンパニの強打を効果的に使い充実した響きを聴かせてくれました。
ホーレンシュタインの名盤 ブラームス1番のLPは掘り出し物
このLPを中古レコード店で見つけた時は、ホーレンシュタインって人いたなぁ、くらいで購入し、しばらく聴かずじまいでしたが、聴いて驚きの掘り出し物の名演、名盤です。
ヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898-1973)は、オーストリア人を母にロシア帝国のキエフ生まれ。
経歴を見るとこの時代の他の音楽家と同様、ユダヤ系ということでナチスの迫害を受けています。
以下、HMVのHPより引用
1922年にウィーン交響楽団を指揮してマーラーの交響曲第1番で
そのキャリアをスタートします。1924年にはベルリンでも指揮を始め、1925年にはベルリン・フィルを指揮して成功して同楽団指揮者に名を連ね、1928年にはベルリン・フィルとブルックナーの交響曲第7番を独ポリドールに録音、同年にはフルトヴェングラーの推薦により、若くしてデュッセルドルフ・オペラの第1指揮者となり、翌年にはデュッセルドルフ・オペラの音楽総監督に就任するなど仕事は順調でしたが、1933年、ナチスの台頭により同職を辞任、ヨーロッパ各地を転々とし、やがて、トスカニーニらと共に設立間もないパレスチナ交響楽団の常任指揮者のひとりとなり、1940年にはアメリカに亡命します。
その後、1949年にヨーロッパに帰還。1950年にはベルク『ヴォツェック』のパリ初演を指揮するなどして話題となり、各地のオーケストラに客演する生活を続けていました。
晩年の住居はスイスのローザンヌでしたが、活動拠点はロンドン。
パリやウィーン、ストックホルムなどで指揮活動をおこない、それほど数は多くは無いもののレコーディングにも熱心に取り組み、素晴らしい成果を遺しています。
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