こんにちは、
ともやんです。
フルトヴェングラーは、1944年~45年に掛けて、第二次大戦もドイツの敗戦が濃厚となっていたころ、ぎりぎりまでドイツに残って演奏をしていました。
しかし、追い詰められたナチスは、完全に極限状態になっていてまともな判断も出来ない状況でした。
そんな折、フルトヴェングラーの命も危ういものとなってきました。
だから、44年から45年において、フルトヴェングラーは、いくつもの「最後」の演奏を行っています。
それらは結果的に最後になってしまったので、フルトヴェングラー自身があらかじめ最後と決めていたものではありません。
今日は、戦時中ベルリンフィルとウィーンフィルとの最後の演奏をご案内します。
フルトヴェングラー 戦時中最後のベルリンフィルとのブラ1
1945年1月23日、アドミラル・パラストでベルリンフィルのコンサートが行われました。
指揮者はヴィリヘルム・フルトヴェングラー。
プログラムは、モーツァルトの「魔笛」序曲と交響曲第40番ト短調。
そして最後が、ブラームスの交響曲第1番。
モーツァルトの40番の第二楽章の途中で停電になり、一時間後に再開。
その時のメイン・プログラムのブラームス交響曲第1番の録音が残されています。
ただ、本当に残念なんですが、第4楽章しか残されていません。
録音されていものが消失したのか、最初から第4楽章しか録音されなかったのかわかりませんが、残された第4楽章が超名演だけに残念でなりません。
宇野功芳氏も「フルトヴェングラーの全名演名盤」の本の中で、全楽章残っていれば、フルトヴェングラー最高のブラームスの第1番、と非常に残念と書かれています。
フルトヴェングラー ベルリンフィル ブラームス交響曲第1番
ヨハネス・ブラームス – Johannes Brahms (1833-1897)
交響曲第1番 ハ短調 Op. 68 –
(17:07)第4楽章 アダージョ – ピュウ・アンダンテ – アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオ 4.
Symphony No. 1 in C Minor, Op. 68: IV. Adagio – Piu andante – Allegro non troppo ma con brio
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 – Berlin Philharmonic Orchestra
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー – Wilhelm Furtwangler (指揮)
録音: 23 January 1945, Berlin, Germany
ベートーヴェンを中心としたフルトヴェングラーの戦時録音を聴きました。
フルトヴェングラーの激しい演奏はもちろんのこと、客席が起因しているノイズがとても生々しいし、
現代のリマスタリング技術も加わって、臨場感と緊張感にあふれる演奏ばかりです。
フルトヴェングラーというと気持ちがこもってくるとテンポが速くなりエネルギーの放出量が高くなる印象を持ちますが、戦後の録音と比べて、テンポの抑揚も激しく感情移入の度合いが比較になりません。
あまりのエネルギーの放出量にのけぞりそうになります。 70年以上前の演奏ですが、時代錯誤ではなく新進気鋭な感覚さえ感じます。それが現代でも評価が高く、今なお信奉者がいる理由なのかもしれません。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーの視聴者のレビューより
フルトヴェングラー&ウィーンフィル 戦時中最後のブラームス
フルトヴェングラーは、44年の10月と11月に1人の女医の訪問を受けました。
その女医は、ナチス幹部のヒムラーの妻の主治医だった関係で、その患者であるヒムラーの妻から、ナチスがなにをしようとしているか少しは知りえることが出来ました。
その中で、フルトヴェングラーの命が狙われているという情報の得たので、フルトヴェングラーに伝えてきたのです。
そして、結果として戦時中ベルリンフィルとの最後の演奏となった45年1月23日の朝、再び女医の訪問を受け、もはや一刻の猶予もないことを伝えられました。
フルトヴェングラーには、1月25日にウィーンでウィーンフィルのコンサートの予定がありました。
りっぱなドイツを出国する理由があります。しかも妻子は、前年の44年の内にスイスに逃していました。
フルトヴェングラーは、1月24日の夜の列車でプラハ経由でウィーンに向かいました。
ベルリンの友人、知人、そしてオーケストラのメンバーには、またすぐ戻ってくるような顔でウィーンに向かいました。
ウィーンに着いたのが1月25日。フルトヴェングラー59歳の誕生日でした。
ウィーンでは、1月28日と29日コンサートを行いました。
これがウィーンフィルとの戦中最後の演奏となりました。
その時の録音がこのブラームスの第2番とフランク交響曲ニ短調でした。
フルトヴェングラー ブラームス 交響曲第2番
ヨハネス・ブラームス – Johannes Brahms (1833-1897)
交響曲第2番 ニ長調 Op. 73
Symphony No. 2 in D Major, Op. 73
I.(21:15) Allegro non troppo
II.(10:43) Adagio non troppo – L’istesso tempo, ma grazioso
III.(05:28) Allegretto grazioso (quasi andantino) – Presto ma non assai
IV.(08:54) Allegro con spirito
total(46:20)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 – Vienna Philharmonic Orchestra
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー – Wilhelm Furtwangler (指揮)
録音: 28 January 1945, Vienna Philharmonic Orchestra
随所のフルトヴェングラーらしい壮絶さが録音されていますが、先の第1番の第4楽章に比べ、今一つ生々しさが捉えられていません。
しかし、ウィーンフィルの柔らかい弦の響きは録音されているので、戦争が激化しても変わらぬ響きということがわかります。
フルトヴェングラー 戦時中最後の演奏と亡命
フルトヴェングラーは、2月4日にまたベルリンでのコンサートが予定されていました。
しかし帰れば、逮捕され命の保証はありません。
ウィーンを離れてスイスに逃れるするしかありません。
スイスには、妻子もいます。
しかも、ベルリンの後には、スイスでもコンサートの予定があります。
しかし、スイスに入国できるのが2月7日からでした。
ここでフルトヴェングラーは、一か八かの手を打ちました。
コンサートの翌日の1月30日にベルリンに電報を打ったのです。
「転倒して脳震盪をおこし絶対安静で、ベルリンのコンサートは出演不可能」という内容でした。
そして、30日早朝すぐウィーンのホテルを立ちました。
ゲシュタポが、ウィーンのホテルに踏み込んだのはその日の午前10時でしたが、フルトヴェングラーは去った後でした。
フルトヴェングラーは、スイスとの国境近くの知人宅で入国が出来る2月7日まで待ちました。
生きた心地もしなかったでしょう。
1945年2月7日、フルトヴェングラーは、スイスとの国境にいました。
しかし、並んでいるフルトヴェングラーは、入国に必要な書類に不備があることに気付きました。
しかし、もう運を天に任せるしかありません。
スイスの入国審査官は、その不備に気が付きました。
しかし、フルトヴェングラーの顔をじっと見て、先に進むよう促しました。
実は、スイス政府当局から、フルトヴェングラーが来たら、入国させるよう指示が来ていたのです。
最後に
結局、フルトヴェングラーは、スイスに入国でき、この地でいくつかのコンサートで指揮をしました。
戦中最後のコンサートは、1945年2月23日、ヴィンタートゥーア管弦楽団とのブルックナー交響曲第8番でした。
その後、ドイツは敗戦となり、ヒトラーは自殺し、フルトヴェングラーは戦犯疑いのため2年以上指揮ができない状態になりました。
結局、戦後フルトヴェングラーが再びオーケストラの前に立ったのは、1947年4月6日ローマのことでした。
そしてベルリンフィルの前に立つのが、1947年5月25日のことでした。
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