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フー・ツォン プレイズ ショパン ピアノ曲集

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こんにちは、
ともやんです。

ウクライナ情勢の報道から胸を痛める毎日です。

また先日『ウィンター・オン・ファイアー:ウクライナ自由への闘い』という2013年から14年に約90日に及ぶ傀儡政権と市民たちの闘いのドキュメンタリーを観ました。
※ネットフリックスで配信中。youtubeでも視聴可能。

これをみると多くの市民の死を乗り越えて勝ち取った自由を簡単に手放せない、ということがわかります。

このドキュメンタリーの中で印象的シーンがあります。
バリケードとして使われているアップライトピアノを若い女性ピアニスト(雰囲気的に音大の学生という感じ)がおもむろに弾き出すのです。

その曲がショパンのエチュード”革命”です。

演奏が始まると警備隊も市民も闘いを止め、演奏に聴き入ります。
わずか2分ほどの演奏ですが、終われるとどちらかともなく拍手が湧きました。

なにか、音楽持つ力を感じた瞬間でした。

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フー・ツォン 祖国への思い

フー・ツォンは、1934年3月10日、上海生まれ。

中国出身のピアニストそして国際的に認められた最初の人だそうです。
1958年ワルシャワからロンドンに向かっている時に、両親が文化大革命の犠牲になったと知り、亡命しその後ロンドンを拠点に活動しました。

フー・ツォンの弾くショパンが、感動的なのは同じく祖国を離れ活動していたショパンの思いへの共感が伝わって来るからだと思います。

フー・ツォンの名前は、ロンドンのインディペンデントに語ったところによると、「良い耳」を意味していたという。1934年3月10日、上海で生まれたフー・ツォンは、国際的に認められた最初の中国人ピアニスト。1940年にピアノを学びはじめ、第二次世界大戦中および大戦後も、イタリアのピアニストで上海市管弦楽団の指揮者であったマリオ・パーチに師事。

1954年に他の中国のミュージシャン、歌手、ダンサーとポーランドで文化交流した際、フーの演奏は聴衆に感銘を与え、翌年のショパン・コンクールに出場するよう推薦されました。結果は第3位(その時、ウラディーミル・アシュケナージが第2位、アダム・ハラシェヴィッチが第1位)でしたが、マズルカの演奏で特別賞(マズルカ賞)を受賞。

この成功により、彼はワルシャワ音楽院で学ぶための奨学金を受ける。そこで彼は、後に「唯一の真面目な教師である」と述べたズビグニェフ・ジェヴィエツキに学ぶ。ショパン・コンクール後、ジェヴィエツキはフーを脇に置き、「君は非常に特別だ。個性がある。既に君自身の考えを持っている。だから君にはそれほど頻繁にレッスンには来てほしくない。私は君の邪魔にならないように導き、君の音楽への個々のアプローチを維持することを確実にするためにここにいるだけだ」と述べたという。

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フー・ツォン プレイズ ショパン 作品集

フー・ツォン・プレイズ・ショパン~コンプリートCBSアルバム・コレクション<完全生産限定盤>

フー・ツォンの名前は、ロンドンのインディペンデントに語ったところによると、「良い耳」を意味していたという。1934年3月10日、上海で生まれたフー・ツォンは、国際的に認められた最初の中国人ピアニスト。

1940年にピアノを学びはじめ、第二次世界大戦中および大戦後も、イタリアのピアニストで上海市管弦楽団の指揮者であったマリオ・パーチに師事。1954年に他の中国のミュージシャン、歌手、ダンサーとポーランドで文化交流した際、フーの演奏は聴衆に感銘を与え、翌年のショパン・コンクールに出場するよう推薦されました。結果は第3位(その時、ウラディーミル・アシュケナージが第2位、アダム・ハラシェヴィッチが第1位)でしたが、マズルカの演奏で特別賞(マズルカ賞)を受賞。

この成功により、彼はワルシャワ音楽院で学ぶための奨学金を受ける。そこで彼は、後に「唯一の真面目な教師である」と述べたズビグニェフ・ジェヴィエツキに学ぶ。ショパン・コンクール後、ジェヴィエツキはフーを脇に置き、「君は非常に特別だ。個性がある。既に君自身の考えを持っている。だから君にはそれほど頻繁にレッスンには来てほしくない。私は君の邪魔にならないように導き、君の音楽への個々のアプローチを維持することを確実にするためにここにいるだけだ」と述べたという。

1958年のクリスマス・イヴに、フーはワルシャワからロンドンへの飛行機に乗り込んだ。両親が文化大革命の犠牲となったため、中華人民共和国への帰国を諦め、彼は1960年に政治亡命を申請し、彼の人生の残りの間ロンドンを拠点に活動した。
フーは、1963年にスカルラッティのソナタの録音で、グラミー賞の「最優秀クラシック新人アーティスト」部門にノミネートされ、1964年にニューヨーク、タウンホールでのリサイタル・デビューを果たした。

その後、彼は何度もニューヨークに戻り演奏会を開いている。またエリーザベト王妃国際コンクールの審査員、ショパン・コンクールの審査員、およびパロマ・オシェア・サンタンデール国際ピアノコンクールの審査員も務めた。アルゲリッチは、しばしば別府アルゲリッチ音楽祭に彼を招いて共演もしている。2020年12月28日、新型コロナウイルス感染症によりロンドンで逝去した。



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