1938年に初めてベルリンフィルを振って、「奇蹟のカラヤン」と好評を得たカラヤンですが、フルトヴェングラーに嫌われて、彼が亡くなる1954年までの16年に、わずか10回しかベルリンフィルを指揮出来ませんでした。
45年から54年まで400回以上指揮したチェリビダッケとの差は歴然でした。
ところがフルトヴェングラーの後任となったのはカラヤンで、チェリビダッケは、カラヤン在任中は、一度も指揮できませんでした。
まさにベルリンフィルの歴史から抹殺されたようなものです。
さて、そんなカラヤンは、1940年にはベルリンで何をやっていたので
しょうか?
そこで激動に時代を覗いてみましょう。
カラヤンの名盤 1939年ドイツの代表的指揮者になった?
1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まりました。
この頃、カラヤンはアーヘン歌劇場とベルリン州立歌劇場を掛け持ちしていて忙しい日々を送っていました。
39年4月には、ベルリンフィルとチャイコフスキーの悲愴を録音しています。そして同じ4月にシュターツカペレマイスター(国家指揮者とも国立歌劇場指揮者とも訳される)の称号を得て、名実共にドイツを代表する指揮者になっていました。
時にカラヤンは31才。
カラヤンの名盤 1940年ベルリンフィルとの新世界
アントニン・ドボルザーク(1841-1904)
交響曲第9番ホ短調作品95「新世界から」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
1940年3月
この頃、カラヤンはベルリンでの仕事の合間に、たまたま時間が合えば、フルトヴェングラーのリハーサルをよく見学していたそうです。
同じくリハーサルを見学しているちょっと特異な要望の青年をカラヤンは目にしていたかもしれません。チェリビダッケも同様に可能な限り、フルトヴェングラーのリハーサルを見学していました。
しかしカラヤンは、猜疑心の強いフルトヴェングラーの意向で
ベルリンフィルのコンサートには出られなかったのです。
ただレコード録音だけは、フルトヴェングラーでの止められなかったので、40年には、このドボルザークの新世界を録音しています。
演奏は、第1楽章はゆったりと入って、後半の楽章でスピードを上げ、終楽章の追い込みのスピード感は凄いものがあります。
後年のスタイルを彷彿とさせる演奏です。
まとめ
今年は、カラヤンの生誕110周年に当たります。あの朝比奈隆と同い年。
そんなことで僕は1月からこの二人のCDを積極的に聴くようにしています。
そしてカラヤンの魅力は40年代から60年代と特に強く感じます。
40年代の数少ないベルリンフィルとの録音が残されているのは嬉しいですね。
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