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カラヤン ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第1番

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こんにちは、
ともやんです。

1908年4月5日にオーストリアのザルツブルクで、ヘルベルト・フォン・カラヤンが生まれました。その6日後、チェコのトゥチャピで、カレル・アンチェルが生まれました。

1908年は和暦明治41年。
カラヤンの誕生から約3ヵ月後の7月9日、当時の東京市牛込区(現東京都新宿区)で朝比奈隆が生まれました。

なお、この1908年には有名な音楽家として他にアメリカのルロイ・アンダーソン(1908-1975)6月29日にマサチューセッツ州ケンブリッジで、オリヴィエ・メシアン(1908-1992)が、12月10日にフランスのアヴィニョンで生まれています。

日本では、作曲家の服部正が、3月17日に東京市神田区(現東京都千代田区)に生まれています。

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カラヤン 没後35周年

カラヤンは、1989年7月16日に当時のソニーの大賀社長とザルツブルクの自宅で商談中に急死しています。81歳でした。

つまり今年は没後35周年になります。
もうそんな経つのかと感じます。89年から90年代初頭にかけては、日本国内ではバブル経済の崩壊。世界的にはベルリンの壁崩壊、ソビエト連邦の解体と劇的な変化のあった年です。音楽界では、89年7月にカラヤンが死去。それを追うように翌90年10月には、カラヤンよりも10歳若いバーンスタインが亡くなりました。

クラシック音楽界をけん引してきたこの二人の死去には、当時の世相と相まって個人的には大きな衝撃でした。

それから30余年。
独身だった僕も結婚し、3人の子供に恵まれ、38年近く勤めた会社を退職し、現在はフリーランスというかアルバイトと年金生活。2年前には孫も生まれました。
生きていれば色々ありますね。

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カラヤンとウィーン・フィルの名演

カラヤンは、単身も含め演奏のための来日を11回行っています。
最初が1954年に単身で来日。その後の10回はオーケストラを伴って来日しています。当然常任を務めていたベルリン・フィルとですが、1回だけウィーン・フィルと来日しています。それは1959年、昭和34年のこと。僕が2歳でした。
ちょうど同時期にアンチェル率いるチェコ・フィルも来日していて、今から65年前の日本の音楽ファンは、居ながらにして世界トップクラスの演奏に接することが出来たわけです。

ちなみに現在もお付き合いがある91歳の合唱仲間の方は、61年4月に来日してコンビチュニー&ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の演奏を日比谷公会堂に聴きに行ったそうです。
だから、上記59年のカラヤン&ウィーン・フィルやアンチェル&チェコ・フィルの実演に接した方もご健在のことと思います。

当時幼児だった僕には、録音で聴くしかありません。
しかし、この59年のカラヤン指揮ウィーン・フィルのブラームスの交響曲第1番は素晴らしい。カラヤンは、元々楽譜に忠実で変な演出をしない人です。このブラームスもけれん味のない堂々たる演奏で、しかもウィーンフィルの芳醇な響きも聴きものです。

特に70年代以降、カラヤンの演奏や響きが豪奢で外面的になったと感じているかにはぜひ聴いてほしいです。僕のその一人だからです。

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カラヤン ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第1番

ヨハネス・ブラームス – Johannes Brahms (1833-1897)
交響曲第1番 ハ短調 Op. 68
Symphony No. 1 in C Minor, Op. 68

1.(13:53) I. Un poco sostenuto – Allegro
2.(09:12) II. Andante sostenuto
3.(04:57) III. Un poco allegretto e grazioso
4.(17:35) IV. Adagio – Piu andante – Allegro non troppo ma con brio
total(45:37)

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 – Vienna Philharmonic Orchestra
ヘルベルト・フォン・カラヤン – Herbert von Karajan (指揮)
録音: 1959年3月23-26日、ウィーン、ゾフィエンザール

ブラームス: 交響曲第1番、悲劇的序曲 ヘルベルト・フォン・カラヤン 、 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

カラヤン(1908-89)は戦後、英コロムビアと専属契約を結んでいましたが、1954年のフルトヴェングラー没後、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの両オーケストラを率いるようになり、ベルリン・フィルと関係が深い独グラモフォン、ウィーン・フィルと専属契約を結んでいた英デッカへの録音を模索します。

1957年に英デッカが米RCAと提携関係を結ぶと、カラヤンはアメリカ・レコード界への窓口としての英デッカ(=米RCA)にいっそう魅力を感じるようになります。1959年秋にはウィーン・フィルとの大規模な演奏旅行(インドのニューデリーを皮切りに、マニラ、香港、日本、ハワイ、アメリカ、カナダへ至る)を控えていました。

そして1959年、1社と独占的な関係を結ぶことをやめ、独グラモフォン、英デッカ、米RCAそれぞれのレーベルへの録音を開始します。

その第1弾として1959年3月、米RCAのために英デッカの録音スタッフによりウィーンで録音されたのが、このSA-CDに収められたブラームスの交響曲第1番です。米RCAへは同時にベートーヴェンの交響曲第7番、ハイドンの同第104番、モーツァルトの同第40番、シュトラウス・コンサートが録音されました。

これらの曲目は1959年秋の演奏旅行での曲目でもあり、実際、日本では来日直前の1959年10月にブラームスの交響曲第1番(LS2242)とシュトラウス・コンサート(LS2244)がビクターよりLPレコードで発売されました。

レコード録音が演奏会のリハーサルとなり、発売されたレコードが演奏会の宣伝や、演奏会を聴いた方へのお土産にもなるという、いかにもカラヤンらしい計画的で実際的なレコード作りが、英デッカ=米RCAとの契約時点から見通されていたことに驚かされます。その後、英デッカと米RCAの提携が解消したことで、これらの音源の発売権は英デッカに移り、今回のジャケットも英デッカの1971年6月発売時(SDD283)のものを使用しています。

カラヤンはブラームスの交響曲第1番を6度セッション録音し、他にライヴ録音もいくつか存在しますが、この録音はウィーン・フィルの弦・管の美しさが際立っていることと、遅めのテンポによる正攻法のアプローチの中で、巨匠となる前のカラヤンの若々しい覇気が漲っていることが特徴として挙げられるでしょう。第2楽章で当時のコンサートマスター、ボスコフスキーの耽美的なヴァイオリン・ソロが聴けるのも、まさに「錦上花を添える」美しさです。

カップリングの悲劇的序曲は1961年9月の録音。こちらはブラームスの交響曲第3番と組んで1962年に英デッカよりLP初発売されました(SET231)。交響曲第1番よりも音色といい緩急といい、いっそうロマンティックな味の濃さをもった演奏となっています。



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コメント

  1. ドラコ より:

    クラッシック好きの私ですがカラヤンのものはLP2~3枚のみ。好みに偏りがあって指揮者はワルター(祖母が買ってくれた田園が初め)、オーマンディ、バーンスタイン、ファン・ベイヌム、イッセルシュッテト、カルロス・クライバー・・・。小澤は一枚もなし。

    孤島に流されるとしたら一冊の本、があります。一曲ならブラームス交響曲1番なのです。中でもベイヌム1958年アムステルダム・コンセルトヘボウ 管弦楽団がベスト。外にグイード・カンテッリ、ケーゲル、ワルター、フルトヴェングラー、へルマン・アーベントロート、ミュンシュな
    ど。

    偶々今日やっと見つけたイッセルシュッテト指揮北ドイツ放送交響楽団による交響曲全曲、ハイドンの主題による変奏曲、大学祝典序曲それとジネット・ヌヴーによるヴァイオリン協奏曲、5枚組を聴き終えたところです。ヌヴーに話がいってしまいますが短期間に録音が3回。中でこのイッセルシュッテトとの演奏は比類ないもので、YouTubeにもあるのでお聴きください。

    カラヤンの日本公演、機会があって1981年普門館で聴きました。音楽ホールでなく5000人キャパでの選定で、満足できるものでなかった記憶があります。

    偏った話になり失礼しました。

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