こんにちは、
ともやんです。
今日2月4日は、名指揮者エーリヒ・ライスドルフの誕生日です。
とうことで彼の録音からプロコフィエフの交響曲をご紹介します。
まず、ライスドルフのプロフィールを簡単にご紹介したいと思います。
1912年2月4日にウィーンでユダヤ人の家庭に生まれました。
父親は、アマチュアのピアニストだったそうですが、エーリヒが子供の頃他界し、母親が貧しいながらエーリヒ少年の学業を助けたそうで、モーツァルテウム音楽院、ウィーン大学、ウィーン音楽アカデミーで指揮者になるための学業を積みました。
その後、ワルター、トスカニーニのアシスタントを務め、1938年にはアメリカのメトロポリタン歌劇場にワーグナーの「ワルキューレ」でデビューし43年まで同歌劇場のドイツ・オペラのトップとして活躍します。
40年代から50年代にかけては、クリーブランド管、ロチェスター・フィル、ニューヨーク・シティ・オペラを指揮者を務めコンサートでの実績を重ねて行きました。
その後、再びメトロポリタンで活躍し62年から69年までボストン響の音楽監督を務めています。
また後年、ウィーン響、ベルリン放送響の首席指揮者の任に就いたものの共に任期は短く、客演が活動の中心になって行きました。
どうも職人気質の芸術家として常任などで発生する世事が煩わしくなってきたようです。
ライスドルフ 飛躍の青春時代
父を失くし貧しいながら母親の家計のやりくりで学業を続けられたライスドルフは、1933年に国家試験に合格し、ピアニスト、合唱やオケの指揮者として多少の仕事を得ることが出来るようになりました。
そんな青年ライスドルフが考えたのは、指揮者として一本立ちするには、巨匠たちの目に留まることが一番の近道だと考え、21歳の若者はこの夏音楽祭開催中のザルツブルクになんとウィーンから50キロ離れた場所に徒歩で行ったということです。
そして若者らしい大胆さで、たまたまベートーヴェンの「フィデリオ」のリハーサルをしていたブルーノ・ワルターの会場に潜り込みました。
その時のワルターは、自身でピアノを弾いて歌手たちに練習を付けていたのです。
そしてここでラインスドルフにチャンスがやって来ました。
ワルターが所用のため立ち去り、練習が中断したのです。
これをみたライスドルフは、大胆にもステージに上がって、中断した箇所からピアノを弾きだし練習を再開したのです。
当然、戻ってきたワルターは、この闖入した若者の行動に驚きましたが、さすがワルター、ライスドルフの機転に感心し、彼をアシスタントに採用したのです。
またこの年の冬、トスカニーニがウィーンでコダーイの「ハンガリー讃歌」を式することになっていた時も独奏を担当するピアニストが現われず、たまたまそこにいたライスドルフが代役を買って出て、立派に役目を果たしのでした。
これがトスカニーニとの運命的な出会いとなり、翌年から4年連続でトスカニーニのアシスタントを務めたのでした。
1933年当時のトスカニーニとワルターと言えば、ヨーロッパの頂点に立つ指揮者でその二人に気に入られたラインスドルフは、ウィーン国立歌劇場に推挙されたのですが、折からのナチスの台頭により、ユダヤ系の彼は無視され、結局、トスカニーニの口利きで諸都市の歌劇場で指揮者として活動することになりました。
その後、誠実に仕事をこなすラインスドルフに再びチャンスがやってきました。1937年、なんとトスカニーニの推薦でメトロポリタン歌劇場の副指揮者となったのです。
そして2年後の39年には、ラインスドルフは、ワーグナーその他のドイツ歌劇のすべての上演に責任を持つ地位になったのでした。
ライスドルフ プロコフィエフ 交響曲選集
プロコフィエフ: 交響曲第5番 第3番 ボストン交響楽団 エーリヒ・ラインスドルフ
プロコフィエフ
交響曲第5番変ロ長調作品100
交響曲第3番ハ短調作品44
演奏:エーリヒ・ラインスドルフ(指揮)、ボストン交響楽団
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プロコフィエフ: 交響曲第2番 第6番 ボストン交響楽団 エーリヒ・ラインスドルフ
プロコフィエフ
交響曲第2番ニ短調作品40
交響曲第6番変ホ短調作品111
演奏:エーリヒ・ラインスドルフ(指揮)、ボストン交響楽団
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