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ガリー・ベルティーニ 命日に聴く名演

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こんにちは、
ともやんです。

今日3月17日は、イスラエルの名指揮者ガリー・ベルティーニ(1927-2005)の命日です。
東京都交響楽団(都響)とは、1981年に初共演をして、98年から亡くなる年の2005年まで音楽監督を務めたので日本でも著名な指揮者です。

実演を聴くことがなかったことがとっても残念に思う指揮者の一人です。
今日はベルティーニを偲んで彼の遺した録音をいくつか聴いてみました。

1978年から96年に掛けてシュツゥットガルト放送響(SWR)と共演演奏からです。

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ガリー・ベルティーニについて

ベルティーニの生まれは旧ソ連の現モルドヴァ共和国ですが、幼い頃にテルアビブに移住。
経歴を見ると
1946年からヴェルディ音楽院に留学。その後パリ音楽院に学ぶ。ブーランジェ、メシアン、オネゲルに師事したと言うことから当初は作曲家を目指していたのでしょうか。

55年にイスラエルに帰国。
その後は、イスラエル国内で活動し、58年にイスラエル・フィルに客演、65年にはイスラエル室内管の音楽監督に就任しています。

ベルティーニが頭角を表してきたのは、40代も半ばに差し掛かった70年代からでしょうか。
71年から81年までスコティッシュ・ナショナル管の首席指揮者、78年から86年までエルサレム響の音楽監督。そして彼の名を一躍世界的にしたのは、83年から91年までケルン放送響の首席指揮者になってからではないかと思います。ケルン放送響とはマーラーの交響曲全集を残しています。

その後は、87年から90年までフランクフルト歌劇場総監督、95年から2004年までパリ・オペラ座でも活躍しました。

そして日本でもお馴染みなったのは、98年から亡くなる2005年まで都響の音楽監督を務めからです。しかも都響とは、マーラーの交響曲全集を録音するなど、マーラー指揮者として素晴らしい足跡を残しています。

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ガリー・ベルティーニ SWR録音集

ガリー・ベルティーニが、1978年から96年に掛けてシュツゥットガルト放送響(SWR)と遺した録音集から、モーツァルト交響曲第40番、ベートーヴェン交響曲第7番、シューベルト未完成、ブラームス交響曲第1番などを聴いてみました。

まさに辛口の演奏で、厳しく真摯なアプローチで深い感銘を受けました。
これは実演で聴いたらどんな感動を受けたかと思うと身震いするくらいです。

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ぜひどの作品でもいいので、ベルティーニの内容が濃く質の高い演奏に接して欲しいです。

ガリー・ベルティーニ – SWR録音集

ケルン放送響や東京都響との名演の数々で日本にも多くのファンを持つガリー・ベルティーニ。

彼がシュトゥットガルト放送響と遺した演奏が南西ドイツ放送のマスターテープから初CD化。いずれもベルティーニ得意のレパートリーで、シュトゥットガルト放送響との初顔合わせから1996年の来日公演のライヴを含む、資料としても貴重なボックスセットです。

ベルティーニは現モルドヴァ(当時はルーマニア領)に1927年に生まれました(生年に関しては異説あり)。母は生物学者で医師、父は詩人で翻訳家だったと言います。子供のうちに一家はパレスチナへ移住。

ベルティーニはヴァイオリンを学び、ミラノのヴェルディ音楽院に進みましたが、その後パリのエコール・ノルマル、パリ音楽院、ソルボンヌ大学で作曲、指揮、音楽学を学びました。その後はイスラエルで活動。1955年に合唱団Rinat(現イスラエル国立合唱団)を創設、1965年にはイスラエル室内アンサンブル(現イスラエル室内管)を創設し、ジョスカン・デ・プレから同時代の新作までを演奏してイスラエル楽壇に多大な貢献を果たしました。

メニューインに招かれてヨーロッパ・デビューをイギリスで飾ったのは40歳近い1966年のこと。ドイツ・デビューは更に遅く、1971年。その後は着実に活動の場を広げるとともに評価を高め、ケルン放送交響楽団の首席指揮者やフランクフルト歌劇場の音楽総監督などを歴任しました。



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