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ミトロプーロス チャイコフスキー交響曲第6番”悲愴”

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こんにちは、
ともやんです。

ギリシャの偉大な指揮者ディミトリ・ミトロプーロス(1896-1960)の命日です。享年64歳。現在の僕と同い年なのですね。その風貌からもっと高齢での他界と感じていましたが、高齢でも活躍している指揮者の中では、志半ばでの逝去です。

ではミトロプーロスの経歴を辿ってみたいと思います。

アテネ生まれのミトロプーロスは、若くしてブゾーニの教えを受け、まずはピアニスト指揮者として活動を開始しました。
特に1930年のベルリンで、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾き振りで演奏して、一夜にして世界に名声を轟かせました。
37年には渡米して、ミネアポリス響の音楽監督に就任、さらに49年にはストコフスキーと共同で、ニューヨーク・フィルの指揮者陣に加わり、50年には単独で音楽監督に就任しました。

58年にはバーンスタインに地位を譲り、その後はフリーで活動の場を広げていました。

しかし、51年前の1960年11月2日にミラノのスカラ座で、マーラーの交響曲第3番をリハーサル中に心臓発作を起こし急逝しました。

まさに自由な立場になりこれからという時なので、本人の無念さはいか程だったかと思われます。

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ミトロプーロス チャイコフスキー交響曲第6番”悲愴”

ミトロプーロスの”悲愴”を聴いて驚きました。彼の録音をあまり聴いてこなかったからかもしれませんが、その風貌から濃厚なロマン派的な演奏かと先入観を持っていましたが、そんな思いを吹き飛ばす早めのテンポとキリリと引き締まった明快な演奏なのです。

重い苦しくなりがちなこの曲を純音楽的は表現で、後年のバーンスタインの迷盤の対極にあるような演奏だと思います。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー – Pyotr Il’yich Tchaikovsky (1840-1893)
イタリア奇想曲 Op. 45
1.(16:21) Capriccio Italien, Op. 45
録音:1957年4月22日 ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ

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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー – Pyotr Il’yich Tchaikovsky (1840-1893)
スラヴ行進曲 Op. 31
2.(10:04) Marche slave (Slavonic March), Op. 31
録音:1957年11月11日 ニューヨーク、ブルックリン、ホテル・セント・ジョージ、ボールルーム

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ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー – Pyotr Il’yich Tchaikovsky (1840-1893)
交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 Op. 74
Symphony No. 6 in B Minor, Op. 74, “Pathetique”

この作品のURLhttps://ml.naxos.jp/work/4369416
3.(15:38) I. Adagio – Allegro non troppo
4.(07:33) II. Allegro con gracia
5.(08:38) III. Allegro molto vivace
6.(08:30) IV. Finale: Adagio lamentoso
total(40:09)
録音:1957年11月11日 ニューヨーク、ブルックリン、ホテル・セント・ジョージ、ボールルーム

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モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー – Modest Petrovich Mussorgsky (1839-1881)
交響詩「禿山の一夜」(N. リムスキー=コルサコフによる管弦楽編)
7.(11:07) St. John’s Night on Bald Mountain, “A Night on the Bare Mountain” (arr. N. Rimsky-Korsakov for orchestra)

録音:1957年11月11日 ニューヨーク、ブルックリン、ホテル・セント・ジョージ、ボールルーム

ニューヨーク・フィルハーモニック – New York Philharmonic Orchestra
ディミトリ・ミトロプーロス – Dimitri Mitropoulos (指揮)

ニューヨーク・フィル・ステレオ・セッションズ1957-1958

ワルターとバーンスタインの間を繋ぐニューヨーク・フィルのミッシング・リンク~「ギリシャの哲人」ミトロプーロス生誕125年記念リリース。
ギリシャ出身の指揮者として20世紀中盤にその名を世界に轟かせたディミトリ・ミトロプーロス(1896-1960)。その生誕125年を記念して、ミトロプーロスが1957~58年にニューヨーク・フィルと残したオーケストラ作品のステレオ録音(オリジナルLPにして5枚分)をSA-CDハイブリッド盤3枚に集成。

ベルリンでブゾーニに学び、E.クライバーのアシスタントを務めたミトロプーロスは1936年にボストン交響楽団を指揮してアメリカ・デビューを飾ってセンセーショナルな成功をおさめます。この時ミトロプーロスの指揮に衝撃を受け、指揮者としての道を踏み出す決心をしたのがレナード・バーンスタインで、バーンスタインにとっては、コープランド、クーセヴィツキー、ライナーと並び、大切なメンターの一人となり、この時ミトロプーロスが演奏したシューマンの交響曲第2番やベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番は、バーンスタインにとっても生涯のレパートリーとなりました。ヨーロッパの政治情勢の悪化に伴い、1937年にはオーマンディの後任としてミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)の音楽監督に就任し、1949年の任期中にその実力を全米随一の楽団へと高めました。

1946年にはアメリカ国籍を取得し、1949年にはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任、1958年までその任にあってブルーノ・ワルターとバーンスタインをつなぐ10年間に個性的かつ巨大な足跡を残しました(アメリカで地方オケから5大メジャーの音楽監督へと「昇格」したのは、他にオーマンディ、ライナーなどの例があります)。

ニューヨーク・フィル時代のミトロプーロスは、マーラーの交響曲や新ウィーン楽派に代表される後期ロマン派や20世紀の大作を続々とレパートリーに取り入れ、同フィルに強い刺激をもたらしましたが、保守的なメディアからの強烈な批判を受けながらも黙々と自らの理想を実現していくさまは、文字通り孤高の存在を地で行くかのようでした。



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